ジョー小泉のひとりごと

「思考の整理学」への疑問

昨日は失敗した。WOWOWエキサイトマッチでスタッフ全員が使う解説資料は私が作っている。それは「戦力比較表」と呼ばれ、作成に結構手間がかかる。

来週火曜が音入れで、それを日曜までには入れたい。計6試合のうち2試合は終わっていて、残り4試合の戦力比較表に取り掛かったのが夜10時だ。それまではマッチメーキングの仕事をしていた。

3試合分を終え、あと1試合になったのが、ちょうど12時。明日(土曜)に回してもよかったが、土日にはしたいことがある。運動をしたい。本を読みたい。書道をしたい。

そこで無理をした。頭の集中力が切れているのに、残り1試合を終えた。30分程度で出来ると踏んだのが、能率が悪く1時間かかった。終わったのが夜の1時。机上を整理し、事務所を閉め、帰宅したのが2時前。寝たのが3時。私は夜型でなく朝型で、朝の方が調子がいい方だ。だからかなり疲れた。

朝9時ごろ、起こされた。もう少し寝ていたかったのだが。数日前、靴の修理の出前のような若者が来た。以前も来たことがあり、土曜の9時ごろ持ってくる、といったので注文した。そのときは、金曜の夜、そんなに遅くなるとは想像していなかった。もうひと寝入りしたかったが、11時に予約制の床屋へ行くことになっている。キャンセルすると、相手にわるい。そのまま起きていた。

普通、床屋から帰ると気分がすっきりするのだが、寝不足のためか、どうも調子がよくない。今日は体育館に行く気も起こらず、いわんや書道をする気分でもない。

そこで吉祥寺の新刊書店に行った。年末、息子と一緒に本屋に行き、好きな本を買わせた。そのとき、ヴィトゲンシュタインの「論理哲学論考」を見た。ちょっと興味がわいたが、買わなかった。それを読みたくなった。

駐車場に車をとめ、すぐ隣の古書店をのぞいたのがミスだった。順序が逆だった。書道の本を数冊もとめ、出ようとすると単行本の「論理哲学論考」があった。500円だ。中を見ると、鉛筆で少し書き込みをしている。活字はこちらの方が文庫本より大きい。ただし、翻訳は古い。

新刊書店にその岩波文庫は平積みにしてあった。寝不足で疲れていたのだろう。本を手に取ったとき、それを読みたいという気がまったく失せていた。体調がわるいときには、かたい本を買いに来るものではない。代わりに買ったのが、「読みの整理学」(外山滋比古著 ちくま文庫)と他数冊だ。

それを数時間で読み終わり(途中、昼寝をしたが)、ふと同じ著者のベストセラー「思考の整理学」(やはり、ちくま文庫)についての疑問を思い出した。

「思考の整理学」の62頁だ。引用する。

心理的残像ともいうべき現象があることに気づく。A、B、Cという互いに関係のあることが、ある間隔をおいて起こったとする。(中略)Aの残像がBにかぶさり、Bの残曳がCに及んで、三つの点であったものが、線のようになる。ことばにおける非連続の連続化は、これらの中でも、生理的な残像にもとづく映画に似通う点がもっとも多いように思われた。(引用、了)

問題は64頁以降にある。また引用する。

疑問がある。Xとする。そのときのテーマはCである。
C:X
これだけからはXを解くことはできない。これと同じ関係にあると思われる、
A:B
をさがし出す。両者の相互関係が等しいとすると、
A:B = C:X
となる。
これからXの値を求むることなら中学校で教える、比例である。
AX = BC
X = BC/X
さきの例で言うと、文章の中のことばが切れているのに意味がつながり、動きが感じられるのはなぜか、というのが、
C:X
である。これが映画のフィルムが映画として見られる現象と、本質において同じであると直感したときに、
A:B = C:X
の式が成立し、左辺が残像によるものであるから、
X = BC/A
のXは、文章上の残像作用ということになる。(引用、了)

ここで疑問がわく。
1. A、B、C、Xの定義がよく分からない。定義をあいまいにしたまま、論理を進めるから推論の筋道が分からなくなる。

2. A、B、C、Xを「現象」とすると、そのような現象に数式を適用できるのか。

3. Xが疑問である以上、それが不明確なのに、どうして
A:B = C:X の式を立てられるのだろう?

ためしにやってみよう。
A=日米対立
B=第二次世界大戦
C=敗戦
X=沖縄問題

仮に、原因:結果として A:B = C:X が成り立つとする。
X = BC/A が成り立つか?

現象であてはめると、
(沖縄問題) = (第二次世界大戦)×(敗戦)/(日米対立)
となるのか?

BCすなわちB×Cというのは、現象同士の掛け算だろう。それは一体、何を意味するのか?

現象同士を掛け合わせることに疑問があり、それを現象で割り算することにも疑問がある。

著者がアナロジー(類推)の効果を述べる意図は推察できるが、この現象という加減乗除できないものに数式を当てはめること自体に矛盾があるのではないだろうか?

加減乗除の対象は「数」であり、それは複素数(実数、虚数)が対象である。実数は有理数と無理数の集合であり、有理数は整数と分数の集合である。

数学の対象ではないものに数学を適用すべきではないのではないか?

ここの部分はよく分からなかったが、「グライダー人間」という造語など非常に上手い。アラビアのロレンスは「ミント(造幣局)」という本で兵士を鋳造されたロボットのように評したことがあったが、それを連想させる造語の卓抜さがある。

学生相手に話をするときは、「思考の整理学」を薦める。ついでに「読みの整理学」も薦めよう。これも面白い本だった。
(1−30−2010)


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1月号から従来のミニコミ誌と違い、積極的に私自身が書き始めました。

<内容>

編集長敬白(小泉) 1頁
今月のアンケート「1月11日のダブル世界タイトルマッチ予想・感想」会員からの意見集 2頁

ピープルトーク (テーマ自由の読者からの投稿欄) 1頁(従来はもっと頁が多い)

アットランダム〜出たとこ勝負(小泉)
圧倒的強さを見せつけた怪物たち 3頁

後楽園ホールだより(小泉) 1頁
1月16日 三垣、長島戦
1月15日 嶋田、サリナス戦

海外ボクシング情報(小泉) 3頁
1月17日までのニュースを織り込んでいます。

好きやねんボクシング(関西情報; 山崎方義氏)独自性がすごい 2頁

中部ボクシング事情(水野孝文氏)その情熱、写真がすごい 4頁

西部リングレポート+拳闘日記(九州の名物男、ドクター山田操氏)そのマニアックぶりがすごい 4頁

メキシコ・ボクシング事情(相田早苗氏)メキシコの最新裏情報

発掘された名勝負・名ボクサー(末永慶寛氏)究極のフィルムコレクターの熱筆

リングつれづれ草(粂川麻里生氏;慶応大学のドイツ語の先生)ユニークなボクシング論


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ご興味ある方には、1月号を無料サービスでお送りします。

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そのメールに対して会報のファイル添付で返信します。

元会員の方も、従来のマンネリ会報とは一味違いますので
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<このミニコミ誌購読申し込み>
2月号からの場合、200円×11ヵ月=2,200円
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(電話は平日午後3時以降)

〒180−08691 東京都武蔵野市武蔵野郵便局私書箱5号 リング・ジャパン会報係
お申し込みは切手代用も可です。
(1−25−2010)


たけし氏との対談

「新潮45」という雑誌がある。そこにビートたけし氏がホストを務めるインタビュー記事がある。毎月12頁ものロング・インタビューだ。タイトルは「達人対談」で相手は科学者が多い。

先月声をかけられたが、12月18日は長谷川選手の世界戦で神戸に出張なので、断らせていただいた。それが1ヵ月延びて、1月20日になった。

同い年だ。たけし氏が1月、私が3月生まれ。「中学のころ、55人で19クラスあった」というと、彼は「60人で15クラスだった」という。あの時代に少年時代を過ごした世代特有のバイタリティを感じた(私にもそれはある)。

約1時間半、終始ボクシングの話をした。彼がよくボクシングを見ていること、それを記憶していることに驚いた。特に最近のWOWOWエキサイトマッチについても詳しい。

辰巳八郎、沢田二郎、海津文雄、権藤正雄から、ジョフレ、メデルの話で盛り上がった。「ボクサー型とファイター型のどちらが好きですか」というと、「ボクサータイプ」と答えた。リカルド・ロペスのようなタイプが好みのようだ。

初対面だが、言葉は丁寧だし(他人行儀もあったのだろうが)、頭の回転が速い。話し方がテレビで見るときと違う。非常に知的だった。ゲストだから持ち上げてくれたのだろうが、いい印象が残る。

サイン入りの著書を1冊頂戴した。「恐竜は虹色だったか たけしの最新科学教室」(新潮社)で、この対談をまとめた本だ。私は大型の色紙に「初心」と筆で書いたものを進呈した。

2月18日発売、「新潮45」3月号にこの対談は掲載される。
(1−25−2010)


安神堂、進藤氏からのご教示

<進藤氏からのメール>

ジョー小泉さま

ご掲載された論語の中の「賢賢易色」の件で、連絡申し上げます。私は品川区で針灸治療院を営んでおります56歳の針灸師です。ブログを読んだのがたまたま19日の朝でした。もうすでに詳しい方々からご指摘があったかと推察しますが、とても興味深いところでしたので、なにはともあれ連絡さしあげようと思いたちました。

早速ですが、加地伸行氏の『論語』(ビギナーズ・クラシックス中国の古典:角川ソフィア文庫:94頁)に、その個所の解釈にはいくつかの異なった説があることが紹介されています。その中で著者である加地先生の解釈がとても興味深い内容でしたので、以下紹介申し上げます。

加地先生の説では「賢賢易色」を「賢を賢として色を易(かろ)んじ」と読み下し、「色」は顔色のことで「賢人を賢人として顔(容姿)などは問題にしない」という意味になっておりました。さらに、次につづく「父母に対する場合」「主君に対する場合」「友人に対する場合」に先がけていますので、たぶんこれは「夫婦についてのありかた」を論じているのだろうと、加地先生は解釈しています。つまり「夫婦はたがいに相手の良いところを見いだしてゆくことが第一であり、容姿などは二の次だ。」と意訳されています。(この解釈はとてもおもしろいと思いました。)

「色」を「色っぽい」という意味ではなく「顔色」と解釈することに私は基本的に賛成です。というのも仕事柄、中国医学の古典をすこしかじったりしていますが、東洋医学の世界観になれたものからみると「色」といえばやはり「顔色」です。例えば顔色をみる診察法である「望診」はもっとも難しく古くから重用されてきました。さらに仏教の世界に転じれば「色即是空」の「色」のように、「色」には「形(物)・形而下」とか「身体」という意味が含まれるので、「顔色」から少し範囲を広げて「容姿」という意味に解釈してもよいのではないかな、とも思います。以上が、私が知りうる情報です。

ところで、実は私は20年前まで新宿富久町にあった三菱重工MCECビルで働いておりました。協力会社の菱和エンジリングの社員でした。その当時、昼休みでしたが近くの公園でシャドーボクシングに励んでいた小泉さんのお姿を拝見したことがありました。小泉さんはたしか品質保証課にいらっしゃったような記憶があります。わたしはそこに11年お世話になって、その後脱サラして東洋医学の世界に身を置いております。そんな不思議なご縁を感じながら、一筆書かせていただきました。

末筆ながら、寒さ厳しい折、くれぐれもお体を大切にしてください。
小泉さんが今後も益々ご活躍されることを祈念いたします。

安神堂針灸院  進藤仁士


<進藤氏への返信>

進藤様
ご教示有難うございました。

「色」が「顔色、容姿」であるなら、伊藤仁斎、荻生徂徠の「賢人に会ったときに緊張して顔色を改める」とする説も意味を持ってきます。それが「識別」につながるかもしれません。

その「色」は相手側(賢人)の顔色か、
あるいは自分の顔色か、
で解釈が分かれるように思います。

申し訳ありませんが、加地氏の説明にもちょっと納得しがたいところがあります。他の訳注書も当たってみたい、と思います。もちろん、加地氏の本も読ませていただきます。

何という奇遇でしょう。私は4階の技術課で特許契約の仕事をしていました。

昼休み、必死でシャドーボクシングをしていたのは自分の体を鍛えるためでなく、夕方ヨネクラジムで中島成雄選手の練習ルーチンに備えるため、トレーナーとして予習をしていたのです。

私は確か75年から85年(28歳から38歳)までMCECに勤めていましたが、ボクシング狂が嵩じて専業になりました。

非常に懐かしい気がします。貴兄から最初にご教示のメールをいただきました。

もしご許可いただければ、貴メールを「ひとりごと」にて紹介させていただいても宜しいでしょうか。もし匿名ならとか、条件があれば、どうぞ御指示ください。

お目にかかることがあるかもしれませんが、取り急ぎメールにて御礼申し上げます。

ジョー小泉

(注)私は当時、その日の夜、選手と一緒に練習することを、昼休み、自分が選手(教えられる側)の立場にたち、シャドーボクシングをしていた。自分で体を動かしてみると、私が夜、教えようと計画していたことに無理、矛盾があることに気づいたり、あるいはもっといい方法(相手に勝つ対策として)があることを発見したことが多々ある。トレーナーが教えられる側を想定して自ら体を動かすのはいい方法だった、といま回顧する。

山本五十六いわく

やってみせ
言ってきかせて
させてみて
褒めてやらねば
人は動かず

<進藤氏からの返信>

早々のメールありがとうございます。少しなりとも参考になったのでしたら幸いでした。
「ひとりごと」への転載はなんら問題はありませんので、ご自由にお使いください。これも何かのご縁かと思っております。私は78年〜89年までMCECでお世話になって、主に9階の土建グループにおりました。84〜85年ごろかと思いますが、菱和エンジニアリングのアメフト部に所属しており、たぶん昼休みに公園で軽いパス練習をしていたときに、小泉さんのトレーニング姿を横目で見ていたように思います。

本題ですが、たしかに加地先生の意訳は異論を挟むところかとも思います。ただ同著には「長い間にいろいろな解釈が生まれてきたわけです。そしてここにまた、古典のおもしろさがあります。」とも書かれておりました。

「色」の解釈が「色っぽい」という意味では、小泉さんが感じる違和感が私にもあります。
ちなみに東洋医学における「色」について少し補足します。
中国医学の聖典である『黄帝内経・素問(こうていだいけい・そもん)』の中に「善く診る者は 色を察して脈を按じて 先ず陰陽を別つ」(善診者 察色按脉 先別陰陽)という有名な文章があります。これを訳すと「診察が巧みな医者は、患者の顔色と脈状を診て、病状が陰に属するものか陽に属するものかをまずは弁別します。」となり、この場合の「色」は「顔色とか顔の色つや」という意味で使われているわけです。

取り急ぎ報告申し上げます。
安神堂針灸院 進藤仁士

<進藤氏への返信>

進藤様
ご返信有難うございます。
一度、品川の方に行ったときお礼に寄らせていただきたいのですが
ご住所と電話をお知らせください。
感謝しています。
ジョー小泉

<進藤氏からの返信>

ジョー小泉さま
ご丁寧なご返信ありがとうございます。

漢文や中国語の専門家でもない私です。お礼などとても恐縮しますので、どうかお気になさらないで下さい。
私は毎日さまざまなひとたちの身体と向き合って身体の声に耳を傾け、鍼とお灸だけで身体を調える仕事をしています。もしも鍼灸が必要なご機会がありましたらどうぞご利用ください。

安神堂針灸院(あんしんどう・はりきゅういん)・進藤仁士
品川区旗の台5−8−7 
п@03−3785−0167


<進藤氏への返信>

進藤様
一度、お目にかかりたく思います。
ありがとうございました。
御礼まで
ジョー小泉

PS 弊社リング・ジャパンの会報1月号を添付いたします。
(1−24−2010)


「論語」についてのある疑問

「論語」の一節がどうも理解できないので、中国文学者、漢文の先生、あるいは中国語の専門家に教示を乞いたい。

三十日、大阪での井岡、国重戦の翌日、帰京する新幹線の中で「論語」を再読していた。正月の書初めにその中の一節を選んで書き、今年一年の処世訓とするためだ。

いままで何度か「論語」を読んできたが、これまで気づかなかった箇所がどうも引っかかる。

<巻第一の学而第一の七> (岩波文庫版;金谷治氏訳注)
子夏曰、賢賢易色、事父母能竭其力、事君能致其身、與朋友交、言自有信、雖曰未学、吾必謂之学矣

子夏が曰く、賢を賢として色に易え、父母に事(つか)えて能(よ)く其の力をつくし、君に事(つか)えて能(よ)く其の身を致し、朋友と交わるに言いて信あらば、未だ学ばずと曰(い)うといえども、吾れは必ずこれを学びたりと謂(い)わん

同文庫の現代語訳にはこうである。

子夏がいった、「すぐれた人をすぐれた人として(それを慕うことは)美人を好むようにし、父母に仕えてはよくその力をつくし、君に仕えてはよくその身をささげ、友だちとの交際では話したことばに誠実である、(そうした人物なら、だれかが)まだ学問していないといったところで、私はきっと学問したと評価するだろう」

問題は「賢賢易色」だ。

この中の「色」は、美人であり、色香のことだという。これは中国人の王念孫の説をとったものだ。

他に、伊藤仁斎、荻生徂徠の「賢人に会ったときに緊張して顔色を改める」とする説、あるいは顔師古の「色をあなどり」という説があげられているが、どれも解釈がおかしいように感じる。

帰宅して「論語新釈」(宇野哲人氏訳注;講談社学術文庫)も参照した。
「賢賢易色」は、「賢人を尊び慕うて好色の心に易(か)え」とある。

こう解釈できないだろうか?
「賢人を賢人として識別(認識)でき」と。

「色」に「色分け、識別、認識」という意味はないのだろうか?
ここ学而篇のはじめに、女や好色が出てくることにどうも違和感を覚える。ところが、「賢人を常人と区別して敬う識別能力を持ち」という意味なら、前後のつじつまが合う。

前の節六は、親孝行や忠義を尽くしたうえ、余力があれば学問をせよ、という。
後の節八は、有名な「過失をしたらすぐ改めるのをばかるべきではない」が来る。

ともに孝、弟、仁、忠信などを説く非常に固い内容だ。どうしてここで、賢人を敬う心を自らの好色心より超越させ、という言葉(解釈)が唐突に出てくるのだろう。

「色」を漢和辞典で引いてみた。
「色」自体には色分け、識別という動詞の意味はなく、「色どり」、「女」あるいは「女の美しい顔色」という名詞の意味だ。

では「易」はどうか。
「易色」という言葉はない。
「易」には、あらためる(改易)、うらなう(易断)意味がある。

こう読めないだろうか。
「賢を賢として色を占(うらな)い」と。
それなら、色分け、識別の意味が生まれ、前後のつじつまが合うような気がする。

漢文の碩学のご教示を乞う次第である。
yu6y-kym@asahi-net.or.jp
まで
(1−3−2010)


年賀状と鉄棒

年賀状を書いている。昨今、パソコンで住所録から宛名を印刷し、裏もまた印刷という年賀状が増えている。私がもらう年賀状のほとんどがそうだ。多忙な時代だから、そして周囲がそんな形で新年の挨拶を済ましているから、自分もパソコンで事足れりという風潮になってきたのだろう。しかし、それは文化に対する甘えである。

何のために年賀状を出すのだろう。交友に感謝する気持ちを伝えるためだろう。表裏とも印刷の年賀状では心が伝わらない、と思う。

私は一枚ずつ宛名を筆で書く。350枚だ。以前500枚書いていた時期があったが、交友が減り、近年はこの数に落ち着いている。今年は喪中の葉書を例年より多く受け取り、約20名には挨拶を控える。約50枚余る計算になる。年賀状を出し忘れたところ相手から頂戴した際、返書するために保管する。

宛名を書いている間、その人のことを思う。もっと助けてあげなければいけない、たまには親戚に連絡をしよう、元気でいるだろうか.「年賀状を書いているんだけれど、おばさん、元気ですか」と電話することもある。こんな中断をするから、年賀状を書く能率が上がらない。しかし、それでもいい。能率などという言葉に反する形で書いているのだから。能率を追求するなら、パソコンにゆだねる。それを拒んでいるのだから、道草もいいだろう。

楷行書でかく。楷書と行書の中間の字である。くずしすぎると相手が読めない可能性がある。読めなくては挨拶にならない。

これまで約200枚書いた。残り、約150枚だ。新年まであと5日。昨日、関東地区とそれ以外を分け、後者を先に書いて出した。今日、明日で前者を書き終えれば、すべて元旦に届くだろう。

書いていて気づいた。私の字は微妙に右へ曲がっている。なぜだろう。多分、書くときの姿勢が悪いからだ。書道をしているときもその傾向があるが、下敷きの縦線が透けて見えるので極力まっすぐに書くように心がける。だが、年賀状では下が透けない。だから、右曲がりの癖が出る。先に書いたものを振り返ると、すべてにその傾向が出ている。

かといって、200枚を書き直すわけにはいかない。姿勢をただそう。そこで散歩に出た。歩いてすぐの公園で、鉄棒にぶらさがる。背骨を伸ばすためだ。そして空を見上げる。背筋がそり、自分の荷重で背骨が伸びているのがわかる。

また年賀状書き。ときにひと休みし、傍らの王義之「集字聖教序」を眺める。刺激を受け、また再開。

私の右曲がり癖の例として掲げるのは、ウイニングの杉林社長宛ての賀状である。同社の住所は公知なので、個人情報開示には当たらないだろう。なぜ文京区と一旦止まり、下の千駄木への縦の線を意識しなかったのか。書き急いだためだ。杉林郁夫(敬称略)の夫を書く前も筆を止め、視線を上に移し、垂直線を想定すべきだった。

300枚あまり書くと、1枚くらい出来のいいものがある。4年ほど前、広島の竹原三郎会長宛ての賀状。2年前、芦澤清一氏宛てのもの。出すのが惜しかった。それを保存し、もう1枚書いて出来の劣るものを出すとする。それはおかしい。何のために年賀状を書いているのだ。そう思い、苦渋の決断で投函したが、毎年、そんな経験がある。

多分、年賀状を書いている途中、こんな「ひとりごと」を書くのは逃避なのだろう。あとひと頑張り。今年は出すのをためらうような1枚がまだ書けていない。
(12−27−09)


本番で実力を発揮する方法

今年の4月、岡山大学の客員教授になった。昨年、同大学ボクシング部監督、丸山圭介先生からの依頼によりスポーツ科学講座で話をしたことがある。それが縁で客員教授の任命を受けたが、私はさほど学識深いわけではない。ただごく特定の領域で自分なりの勉強をしてきただけだ。

1年に数度、講義、講演をする約束になっていた。多忙なため、それが12月9日になった。大阪での多田、富樫戦が6日。翌日、一旦帰京し、当日朝5時に起き、早朝の新幹線に乗った。この日、中央線の信号故障で快速電車が走らず、東京まで各駅停車。しかも、駅員は東京まで36分(快速なら通常30分)といったのに、55分かかり予定していた新幹線に間一髪、乗りそこなった。岡山駅に出迎えに来られる丸山先生、鈴木先生に電話して詫びた。大事な行事のときはもっと時間的余裕をとらねばいけない、と猛省。

当初の予定は、午後6時から1時間半、「特別スポーツ講座」と題した講演をするだけだった。それは学生のみならず社会人の人たちも聴講できる公開講座だ。ところが、大学側から、「最近の学生はあまり勉強しないから、勉強が社会で役立つか、について昼の部で講義してほしい」と依頼され、それを受けた。

午後1時から講義1時間、質疑応答30分(20分だったかもしれない)。講義のタイトルは、「大学での勉強は社会でどう役立つか」とそのものずばり。私が工学部の学生だったとき、「つまらない退屈な話だな」と思い辟易した講義が、会社勤めをして有形無形、役立った経験などを話した。

講義をする前、「新入生にすすめる本」というテーマの本を3冊チェックした。東大の先生が出したもの(上下2巻)と広島大学が出したもの。その中で、自分が読んだことがあるものをチェックし、それを「読書のすすめ」として1枚の紙にまとめた。

私などが学問のすすめを語るなどおこがましいのだが、そこは自分の信条である「自分なりのベストを尽くし、それでよしとする」通り、熱意をもって話した。その熱意がどれだけ伝わったか。昼食後の講義なので腹満ちたせいか、居眠りをしていた女子学生がいた。次のテーマに移るとき、「大事な話をしますから、寝ている人は起きて」といった。教師というのは大変だな、と実感した。

そのあと、ホテルで1時間くらい休息をとり、夕方の講演に出かけた。大きな会場には数十人の聴講者がいた。

まず、敵地メキシコでのルイシト小泉対アレハンドロ・コブリタ・ゴンサレス戦のハイライトを映写した。

本番、試練、正念場、勝負どき、ピンチ、危機を前にして、どのように心身の備えをすべきか、を主に話した。さらに、雑念、邪念、弱気を取り除くための集中力の重要性を強調し、それを実現するためのコツについて述べた。

終わりに、私が昨年、名誉の殿堂で行った受賞スピーチを映した。多くの聴衆を前にして、どうしてあがらず予習の成果を発揮したか、について自分の方法を説明した。

多分、面白かった、と思う。他の本には載っていない独自性があったから。私の話のテーマは、SPORTS PSYCHING(スポーツ心理学)で、講演の前、何冊かこの系統の本を読んだ。そこに書いていること以外の話をしよう、と思った。他人の受け売りでは面白くない。

来年は、「緊張とリラックス」。
再来年は、「勝負勘の分析」。
そのテーマについて話す予定だ。

今回、このような講義、講演の機会を与えていただいた千葉学長、鈴木先生はじめ関係各位に感謝したい。講義ノートをまとめる過程で、以前あいまいな形で考えていたことを言葉に置き換えることが出来た。その作業の時を持てたことは自分自身にとってためになった。教えることは学ぶことに通じる、と実感した。
書名 著者 出版社 ひとこと紹介
思考の整理学 外山滋比古 ちくま文庫 自分の頭で考えることの重要さ
ソクラテスの弁明   岩波文庫 無知と有知の境界
方法序説 デカルト 中公クラシックス 全体と部分、仮説(研究志望者向け)
       
頭の回転をよくする読書術 加藤周一 岩波現代文庫 本を読むことの楽しさ
日本文学史序説 加藤周一 ちくま学芸文庫 文科系必読
       
武士道 新渡戸稲造 講談社バイリンガルブックス 日本とは、日本人とは何か
       
日本人の英語(続もあり) マーク・ピーターセン 岩波新書 英語学習の刺激
       
「超」整理法 野口悠紀雄 中公新書 これに限らず整理法を読むことは重要
       
理科系の作文技術 木下是雄 中公新書 レポート、作文のコツ(文科系にも有用)
       
知的生産の技術 梅棹忠夫 岩波新書 知的活動のための整理技術
       
竜馬がゆく 司馬遼太郎 文春文庫 読書の楽しさ(本を読む習慣作り)
坂の上の雲 司馬遼太郎 文春文庫 日本の発展を支えた人物像
「明治」という国家 司馬遼太郎 NHKブックス 日本史への導入
「昭和」という国家 司馬遼太郎 NHKブックス 日本史への導入
       
ケインズ「一般理論」を読む 宇沢弘文 岩波現代文庫 近代経済学の概要
       
わかりやすい統計学 松原望 丸善 統計学の存在を知ることは重要
       
漢語の知識 一海知義 岩波ジュニア新書 漢文の素養
       
坊ちゃん 夏目漱石   ユーモアを必要とするときのために
       
思考のための道具 ラインゴールド パーソナルメディア コンピューターの成り立ち(理科系)
       
日本とアジア 竹内好 ちくま学芸文庫 日本のアジアにおける位置
       
ことばと文化 鈴木孝夫 岩波新書 日本語とは何か
       
新 物語世界史への旅(全2巻) 大江一道 山川出版社 世界史を在学中、復習すべし
       
知的複眼思考法 苅谷剛彦 講談社+α文庫 ものの見方、視点を変える
       
中国古典名言事典 諸橋轍次 講談社学術文庫 漢文へのいざない
       
論語 孔子 岩波新書 東洋人のアイデンティティ

(12−24−09)


「BOXING NEWS」100周年

英国の「ボクシング・ニュース」誌が100周年を迎えた。9月11日号がそれだ。

1909年創刊だから、1921年発刊の「リング」誌より古い。しかも「ボクシング・ニュース」は週刊誌だ。その内容の緻密さ、濃さはインターネットのFIGHTNEWSなどをはるかに凌駕する。文章の質は「リング」誌より上だ、と思う。その差の源は、英語と米語の違い、英国人と米国人の違いにあるように感じる。つまり、英国人の方が細部において穿鑿的だ。

英国では金曜発行で、1週間遅れで日本に届く。自宅に「ボクシング・ニュース」が着くのは、月曜か火曜だ。スーパーファイトの展望号が終わった直後に届く。その点が残念だが、毎週、この週刊誌を読むのが習慣というより生きる楽しみになっている。

忙しくて先週号を読みきっていないうちに、最新号が届くことがある。そんなときは、先週号の読むべき記事にポストイットパッドを貼り、あとで読むことにして、最新号を開く。

編集長がいまのClaude Abramsになってから、英国色より国際色が強まり、私のような非英国人にとっては読むところが多くなった。

記事により記者の個性が色濃く出て、ときとして癖の強さ(英国ナショナリズム)に辟易することもあるが、読んでいてその偏見、偏向ぶりが笑いを誘うこともある。

私も寄稿家で世界戦の記事が載るが、いつも短縮版だ。昔から「ボクシング・ニュース」誌には東洋関連の記事が少ない。多分、英国の読者たちは東洋のできごとにあまり興味を持たないのだろう。「ボクシング・ニュース」誌を読み続けていると、欧米と接点の少ない東洋の孤立が感じられる。

最新号は、パッキャオがコットを破った写真が表紙だ。早速読み始めねばならない。さもないと、すぐ来週号が届く。その追われるような気ぜわしさがまたいいのだが。
(11−25−09)


志ん生芸談より

「志ん生芸談」(河出書房新社)の中に面白いことばがあった。

本当に巧いとなると、こりゃ素人が聞いても分かるもんですよ。通でなけりゃ、分からねえ巧さは、まだ本当じゃないね。

<置換>
巧い → 強い
聞いても → 見ても
巧さ → 強さ

本当に強いとなると、こりゃ素人が見ても分かるもんですよ。通でなけりゃ、分からねえ強さは、まだ本当じゃないね。

こうすると、ボクシングに通じる。

志ん生はボクシング・ファンだったそうだ。
この本の中に次のような一節がある。

「高山、勝たしたいね」と、師匠。
(中略)
落語と拳闘と野球の客層は同じというのが師匠の持論だ。
(中略)
新宿末広は、やはり入りがわるかった。今夜はお座敷があるので(・・・とは口実で、実はテレビの高山―ムーア戦を見たかったのだ)サッサと高座をすませて七時過ぎに帰宅。

なぜボクシングが好きかというと、「嘘がないから」といっていたそうだ。

この高山―ムーア戦は初戦か第二戦か?
「高山、勝たしたいね」で、高山一夫への期待がうかがえる。ということは、勝機ありと見られた第二戦と推理するのが妥当だろう。
(11−11−09)