ジョー小泉のひとりごと

美術展のあと

美術展は6日から14日までで、その初日に伺った。
まだ観客が少なく、静かな広い空間の中に自分の作品が掲示されているのを眺めていると、まるで別世界にいるような錯覚をした。

松岡社長、武野氏に挨拶をしてから美術館を出た。
最近、拙作が出展される機会が増え、以前のような気恥ずかしさをあまり感じなくなった。

来年、もし出させていただけるのなら、別のもっと大きな字の作品を仕上げてみたい、と思う。
(9−19−2021)


水泳百回

毎年、1年365日のうち、300日泳ぐのを目標としている。
ところが、コロナ禍でプールが閉鎖している日々が続き、8月末日、やっと今年100回目を迎えた。

50回で区のマークが入ったA4のビニールファイル、100回でタオルをくれる。
何度かもらっているが、自分の積み重ねを誉められたようで嬉しい。

家からプールまで約3,000歩で、往復6,000歩。
午後、小1時間散歩して、略算で1日1万歩、プラス水泳30分。
これが日課だ。

今年は残り4ヵ月、約120日で、100日泳げば、年間200回になる。来年、300回に戻せばいい。
(9−15−2021)


上方藤四郎

古い「ボクシングガゼット」誌を見直すと、ときに上方藤四郎の随筆を見る。大阪の素人という意味のペンネームだろうが、批評家、専門記者が書く内容とはひと味違っていた。

晩年の上方藤四郎と府立体育会館で一度だけ会ったことがある。その想い出を書いたものだ。

かつて人気俳優でボクサー役などアクションスターの水島道太郎にも会ったことがある。西日本の協会の事務所でだったが、懇意のどこかのジムの会長と一緒に来ていたのだろう。

谷崎会長が、「いい男は歳をとっても粋だな」と言ったが、同感だった。私はまだ子供だったが。
(9−14−2021)

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文化人・芸能人の多才な美術展

開催日時 9月6日〜14日(火)11時〜18時

場所 O(オー)美術館@JR大崎駅前大崎ニューシティ2号館2F

入場料 税込1,000円(小学生無料)

書道拙作2点を出展させていただいています。

(9−11−2021)


迷 路

書道展の受付で作品の掲示場所を探してもらったとき、ちょっと手間取った。

ほんの少しの時間だったのだが、一瞬、
「自分の当選は間違いだったのでは?」とか
「あの当選通知は誤りだったのでは?」とか
不安がよぎった。

あの瞬間、ちょっとした小話が浮かんだ。
それを帰ってから書いてみた。

適当に書き、適当にそこいらに置いた拙稿が見当たらなくなった。
そうすると、一旦自分が書いたものだから、何というか名残惜しくなった。

今日、部屋を整理していたら、それが出てきた。
日記帳の端にはさんであった。

またなくさないうちに、「ひとりごと」に掲載しておこう、拙者の拙作を。
(8−30−2021)

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毎日書道展

7月24日、上野の東京都美術館へ家内と行った。
毎日書道展に入選したという通知を受け取っていたからだ。
この日が展示の最終日であった。

毎日展において入賞と入選は違い、前者は佳作以上、後者は佳作より下である。毎日展は全国的規模の書道展で各地を巡回するのだが、入選は東京展においてのみ展示される。

世の中にこれほど多くの書道家、書道愛好家がいるのか、と思うほど展示数が多い。その中のひとつがわが拙作である(出品数は約2万4000点で、選に入るのさえかなり難しい)。

観たあと、いつものように階上の精養軒で昼食をとった。
私が窓から外を見ていると、家内が言った。
「いつもカレーライスだから、たまにはハヤシライスにしたら」
ああ、何でもいいんだよ。

このレストランに来るのは、最近4度目だ。
日書展、連合展に各2度、入賞か入選かした覚えがある。
今日と同じように、窓際の席から上野公園の方を眺めた記憶がある。

ランチが来て、気が付いた。
「カレーライスは好きだが、ハヤシライスは好みではない」と。
それを家内に説明するのがとても億劫だった。
あまりに数多くの書道作品を見て、正直いって食欲が失せた。

次回は、入賞して精養軒でカレーライスを食べよう。
いつの話だろう?
来年か?
(8−23−2021)


鷗友選抜書道展

7月21日から25日、銀座のセントラルミュージアムで鷗友選抜書道展が開催され、会友である私は拙作を出品させていただいた。

初日に伺うと、わが師、徳村旭厳先生がおられ、話をしているところに、坂本博之会長夫妻が来観。
二人は懇意で、ジムの標語を徳村先生が書いたことがあるそうだ。

坂本会長から聞いたところ、徳村先生は作品を仕上げるとき、朝4時に起床し、シャドーボクシングをしてウォーミングアップをし、それから出勤前に数時間、書くそうだ。

先生は高校の書道の教師をされて長いが、このように早起きをして職業と書道家としての作品作りを両立されている。聞いて感銘を受けた。
(8−20−2021)


漫才師

 曲芸師のつぎは漫才師だ。
 私が20歳の頃だ。大阪で試合があり、神戸ジムの選手が出るときは、大学の授業が終わると急いで会場へ向かった。母の叔父は県会議員で神戸ボクシングジムの後援会長だった。だから、高校を出たあと、私には大学生とジムの拳闘小僧のふたつの顔があった。

 芦屋駅で漫才師の捨丸、春代と出遭った。私は団塊の世代でラジオが娯楽の時代に育ったせいか、落語や漫才の笑いが好きだ。一番おもしろかった漫才師は中田ダイマル、その次の好みは砂川捨丸だ。

 「頑張ってください。ファンです」と声をかけたことで漫才師夫婦の仲たがいが融和したような印象を持った。私はまだ子供で単純だったから。

 近年、捨丸春代の「丘を越えて行こうよ」の漫才の動画を探してみたが、見当たらなかった。確か吉田留三郎という偉い漫才研究家が捨丸の伝記を書いていて、その中にこの「丘を越えて行こうよ」の筋書きのようなものがあったような記憶がある。蔵書にあるはずだが、雑書に埋没して見つけられなかった。
(7−10−2021)

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曲芸師

 昔書いたものを整理していたら、「曲芸師」という随筆めいた一文が出てきた。これは転居前、近くに住む高名な曲芸師とすれ違った話だ。

 芸を披露することを業とする人が、その芸を錆(さ)びさせないよう習練するさまを垣間見た。

 もう故人だが、その名を海老一染之助という。和傘の上で毬(まり)や升(ます)を回す芸を得意とした。そばに二歳違いの兄、染太郎が付き添い、笑いをさそう解説役をつとめていた。

 兄が十五年早く世を去り、弟は八十三歳で逝った。兄亡きあと、染之助はひとりで舞台をつとめたそうだ。正月限定で、林家木久蔵が亡兄の相方の役をしてコンビを組んだことがあったと聞くぞう。

 私はいまほど頻繁に泳ぐことを日課にしない頃、神社までジョッギングしてそこで体操をしてまた走って帰った。神社の境内で海老一染之助の日々のトレーニングぶりを見た。

 ときどき散歩の途中、染之助を想い出し、その神社まで足が伸びる。
(7−9−2021)

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新茶一生

静岡のわが友、和田さんから毎年、新茶を送っていただく。
そのお礼として毎年、何か書道の拙作を返礼として送らせていただく。

今年は「新茶一生」という大判の色紙を送った。
和田さんの許可を取り、ここにコピーを掲載させていただく。
感謝。
(7−2−2021)