今年は盆休みを四日とった。そのニ日目、学生アルバイトのO君(彼は週に一度ビデオやDVDの整理に来る)と一緒に書庫の整理をした。彼は190cm近い大男だが、結構手先が器用で、仕事が丁寧だ。高い棚の本も踏み台なしで手が届く。
まず洋書をナンバー順に並べた。ある時期まで図書館のように背にナンバーをふり、ノートに記載していた。そのナンバーづけ分(それだけでも数百冊ある)を順序通り整理した。
リング年鑑、リング誌縮刷版を年数通り並べなおした。下田辰雄氏、中村金雄氏から遺贈されたスクラップブックを書架の前の方に出した。今後、これを読むつもり。
ひとりで整理すると、私のことだから途中で本を読み出し、夜になっても片付かない。隣にO君がいるから、せかされるように一緒に本を並べ替えた。
一度、本を書庫の外に出したのが、結果的によかった。一時は玄関から階段、居間まで本だらけになったが、一旦空にした本箱に順序よく並べ直せた。
午前十一時から夜六時まで(途中、ランチタイムをとったが)、何とか目標のラインまでやりきった。さすがに最後は疲れた。
以前、ボクサー諸君に紹介しようと思ったが、見当たらなかった本が出てきた。
「スポーツ選手の食事と栄養学」(鈴木いずみ著;西東社;1,300円)だ。図解が多いうえ、具体的な献立が数多く書かれている。項目として、最大筋力を高める食事、持久力を高める食事、瞬発力を高める食事、試合前の食事、減量とウェイトアップの食事、ケガや故障に勝つための食事があげられている。興味のあるところを見るだけでも参考になる。
まだ読んでいないボクシングの本で非常に面白そうなものがかなりあった。雑読をやめ、もっとボクシングの本を読むべきかな、と思うが、いろんな分野の雑読(私はちょっと領域を広げすぎ)が役に立つ面がある。
家内はもう一度引越しをしたい、という。やめてほしい。もう私にそんな元気はない。私は書庫と一緒にここに残る。できるだけフェルトペンやアンダーラインで重要な箇所にマーキングをしておくから、後世、誰かの手に渡ったら、その部分を読んでほしい、と思う。
(9−12−09)
いつも戦記や戦史ばかりを読んでいるわけではないが、夏になると、戦争に関する本を読むことが多い。まず「大日本帝国」崩壊―東アジアの1945年(加藤聖文著 中公新書)を読んだ。 日本、中国、朝鮮、台湾、満州、樺太、南洋群島で、1945年八月十五日以降、どんな戦後を迎えたか。それに興味があった。叔父、故巌は南洋で終戦の報を聞いた。彼はいかにして引き揚げたのか。 「もっと早く聖断が下されていれば、原爆もソ連の参戦も回避でき、あれほどの犠牲を出さずに済んだのではないか」(47頁)という疑問を以前から持っていた。「しかし、物事はそれほど単純ではない」(同)と著者はいうが、元軍人の息子として、私は依然としてその疑問を捨てきれない。 近年、第二次世界大戦、あるいは大東亜戦争について、新しい事実や見方を示した本が出るようになった。戦争を経験した世代が封印していた思い出を死の前に語りだしたためもある。1966年生まれの戦争を経験していない、この若い著者に教えられるところがあった。私はこの本を再読するだろう、来年の夏に。 |
次に、といっても他の本も読んだ後にだが、戦争に関する本を読んだのは、「帰還せず 残留日本兵 六十年目の証言」(青沼陽一郎著 新潮文庫)だ。この本に出てくる地名をすべて最近買った「コンパクト世界地図帳」(昭文社)でチェックし、フェルトペンを引きながら読んだ。時間はかかったが、インドネシアやタイの地理が分かり、残留日本兵の移動の厳しさがよく理解できた。 「帰ったところどこへ行くんですか。(中略)行くところがありませんから」(326頁)のところを読んで、しばし本を擱(お)いた。それは哀しい故郷喪失(Heimatlos)だ。こんな人生もあるのか、とため息が出た。戦地から必死で故国に戻ろうとする人たちの陰で、このような人たちがいたことが当時の日本の社会を映し出す。 |
「それでも、日本人は戦争を選んだ」(加藤陽子著 朝日出版社)は、多田、ヤニ戦のため大阪に五日間滞在する間、地下鉄の淀屋橋で乗り換えたとき、地下街の本屋で買った。他に読むべき本を持ってきていたが、これを読み出したら止まらなくなった。東大の教授が高校生に対し質疑応答を重ねながら、日本近現代史を語る。日清、日露戦争、第一次世界大戦、満州事変、日中戦争、太平洋戦争を解き明かしていく。 加藤教授の質問に対し、高校生たちがいい反応をする(本当にそう答えたのか、と思うほど感心する応答さえある)。ベストセラーだというが、さもありなん、と思う。一般にも分かりやすく、しかも新しい視点が盛り込まれている。 内容は十分評価するが、個人的には読後感が悪い。一体なぜだろう、と思っていた。ホテル暮らしだったが、そのホテルは日ごとに新聞を朝日、読売、毎日と変える。たまたま八月二十一日の毎日新聞に著者のインタビューが出ていた。 「日本は悪くなかったということで自信を取り戻すのではなく、さまざまな制約を課せられた日本が英知を結集した歴史を知ることで、自信を持ってほしい」と著者は語る。 戦争に至る過程、戦争を遂行する過程、戦争を終結する過程、節目節目で、日本はあまりに多くの過失をおかした。それを英知を結集した歴史といわれると、受け入れがたいものがある。関東軍の暴走、政治の無能、あるいは当時の日本の国としてのあり方自体が、敗因だろう。戦術、戦略が拙すぎる。戦争をどう終わらせるべきか、そのプロット(策)を描かぬまま戦いに突入し、最後は数多くの兵士を餓死させた。それを戦争の論理といわれると、庶民の立場からすると辛い。 |
次に「さらば昭和の近衛兵 兵たちの見た皇居内敗戦絵巻」(絵内正久著 光人社)を読んだ。本当は、「近衛兵たちの戦後」というテーマの本があれば、それを一番読みたいのだが、近衛兵自体に関する本を探していたら、これに出会った。1992年刊だから、十七年前に出た本だ。亡父は二十歳で近衛兵にとられて以来、二十五歳で終戦を迎えるまで、こんな体罰に満ちた兵士教育を受け、宮城守備の仕事をしていたのか、と感慨深く読んだ。時代のせいとはいえ、自由がなく、ろくに勉強もできず、青春を抹殺されたようなものだったのだろう。玉音放送の直前、近衛師団の一部はクーデターを起こしかける。このあたりは「日本のいちばんながい日」にも書かれていたが、元近衛兵の著者ならではの臨場感あふれる描写はなかなかの読みものだった。終戦後、東京から郷里に戻るとき、亡父の挫折感はさぞ深いものだったことだろう。 別に自ら戦史を書こうという気は毛頭ないが、書庫に戦争関連の本がかなり溜まっている。あまり厚い本は読まないが、新書程度なら戦争をテーマにした本はよく読んできた。なぜこんなに戦争の本ばかりを求めるのか? それが「それでも、日本人は戦争を選んだ」の本のあとがきで指摘されていた。 「過去の戦争を理解しえたという本当の充足感やカタルシスが結局のところ得られないので、同じような本を何度も何度も読むことになるのです」と。この部分では、目からうろこが落ちる思いがした。私は死ぬまで、このように同じような戦争の本を読み続けるのだろうか。まるでシシュフォスだ。 (8−26−09) |
「The Regulation of Boxing ボクシングの管理」という洋書を読んでいたとき、こういう文章に出会った。
The Perons were publicly admired by the great sportsmen of their time, including popular boxers such as Pascual Perez and Jose Maria Gatica, Olympians such as Delfo Cabrera and Formula 1 racing legend Juan Manuel Fangio.
パスカル・ペレスは白井義男と戦ったのだから、もちろん知っているが、“ホセ・マリア・ガティカ”とは?
BoxRecで調べると、ライト級の選手で現役時代は1945年から56年まで。戦績は、95戦86勝72KO7敗2分けとすごい。
一体どんな選手だったのだろう。昔、WBCのランキング委員だった頃、私がアジア圏を担当し、フリオ・エルネスト・ビジャが南米を代表していた。よく議論したものだ。彼が書いた厚くて大きな本がある。「20 Campeones y Una Leyenda 20名のアルゼンチン人チャンピオンと伝説」という立派な本(スペイン語)だ。
それを辞書を引きつつガティカの章を精読した。感動的なストリーだった。当時の欧州担当の委員、英国のエリック・アーミットに「ガティカという選手を知っているか?」とメールを送った。感動を分かち合いたかったからだ。
もったいぶらず、その断片を書いてみよう。
ホセ・マリア・ガティカは1925年、アルゼンチンのサン・ルイに生まれた。両親とも労働者で、ガティカが子供の頃、首都ブエノスアイレスに移った。彼は10歳の頃から街路で靴磨きをしていた。
極貧のため、ガティカは学校へ行ったことがなく、生涯読み書きを習ったことがなかった。当時、水夫たちが非公式のアンダーグラウンド・ファイトをして、賭場を開いていた。ガティカはノンストップでワイルドなパンチを打ち続ける、猛烈なファイター型だった。
ガティカの素質を認めたのが、パスカル・ペレスのマネジャー、ラサロ・コシィだ。ガティカは彼の指導で、アルゼンチンのアマ・ゴールデン・グローブ大会で優勝。
プロデビューは23歳。最初の5年弱で46戦43勝33KO2敗1分け。猛烈なファイトぶりで一躍、ボクシングの殿堂ルナ・パークの人気選手となった。新しい大統領フアン・ペロンと妻エビタはスポーツ愛好家で、アルゼンチンのアイドル選手ガティカをひいきにした。ガティカはペロン政権のマスコットボーイのような存在となる。
ガティカはあまりに強いので腕試しのため米国遠征し、初戦はテリー・ヤングに4回KO勝ち。2戦目は、51年1月、マディソン・スクエア・ガーデンで世界ライト級王者、アイク・ウィリアムズとのノンタイトル戦。ここで不運にも初回3度のダウンを喫しノックアウト負けし、世界制覇への道を断たれた。
敗北にもかかわらず、ガティカの休む間のない猛烈なファイトはファンを魅了し、51年は16戦、52年は15戦を消化した。この2年間で負けたのは、世界王者ウィリアムズ戦を含め3度だけ。勝利はほとんどKO勝ちだった。
ガティカにはライバルがいて、アルフレド・プラダという。過去3戦して2勝1敗。53年、両者は4度目の対決をし、ガティカはアルゼンチン国内ライト級タイトルがかかった一戦で6回終了TKO負けを喫す。この試合は25,000人の観客を集めた。
ドル箱スター、ガティカは湯水のように金を使い、連日一流レストランで豪華な食事をし、スポーツカーに乗り、2度目の女房をダイアモンドで着飾らせた。
ペロン政権の没落とともに、ペロンのペットとして贅を尽くしたガティカはファンの人気を失う。試合後、国外に亡命したペロン前大統領に勝利をささげる、と発言して投獄された。さらに、アルゼンチン・コミッションにより、ガティカが親ペロン派という理由でライセンスを取り上げられ、強制的に引退をさせられた。
まだ31歳になったばかりで、12連勝(11KO)を続けていた。リングを去ったヒーローをファンは見捨てた。金の切れ目が縁の切れ目で、美人の女房は彼の元を去る。蓄えのないガティカは、街で新聞売りをして生計を立てることになる。
ここでかつてのライバル、アルフレド・プラダはガティカの窮状をあわれみ、自分が所有するレストランのウェイターの仕事を提供する。
しかし、落ち目の元アイドルはまた不運に見舞われる。洪水のためすべてを失ってしまう。ガティカには3度目の女房と2人の娘がいる。家族を養うため、昔を忘れ、スポーツ会場内で物売りをした。
ガティカはチェインスモーカーだった。きっといつも心はいらだっていたのだろう、過去の栄光と現在の貧困の落差のために。
63年、権力による強制的引退から7年後、ガティカは小型乗り合いバス(colectivoという南米特有の4,5人用のバス)に轢(ひ)かれ、2日後に逝った。38歳だった。
93年、彼の生涯は映画になったそうだ。タイトルは、「Gatica, El Mono」だ。Monoとは猿の意味だ。知性のない気取った若者の意味もあるが、当時のヒーローのニックネームはその意味ではないだろう。
ふと出会った異国の選手の生涯を読んで、悲しみに襲われた。ガティカにとって、ボクシングをしたこと、そしてペロン大統領に寵愛を受けたことが、逆に不幸を招いたといえるかもしれない。日本では名選手たちはボクシング界に留まり、会長やトレーナーになる例が多いから、悲惨な晩年の話を聞かない。しかし、外国ではサム・ラングフォード(盲目)、アントニオ・セルバンテス(麻薬常習者)、ロッキー・ロックリッジ(ホームレス)など悲しい話を聞く。
ガティカのライバル、アルフレド・プラダも好選手だったようで、終身レコードは99戦81勝(36KO)5敗13分け。51年6月、世界フェザー級王者サンディ・サドラーは南米遠征し、この6月だけで4試合をし、すべてKO勝ちしている。アルゼンチンで3戦、チリで1戦。その最初の対戦者がアルゼンチンのホープ、プラダだった。多分、技巧派だったのではあるまいか。
アルゼンチンのスペイン語はちょっと独特で、辞書を引くと(南米)と注釈のある言葉が多々あった。5時間続けて、ビジャ氏のスペイン語の本を読んでいて、スペイン語を勉強しておいてよかった、と思った。今後、もっと中南米の隠れたヒーローの話を読んでみたい。プエルトリコのペドロ・モンタネスのように、あるいはわが国のピストン堀口のように、世界の王冠に手が届かなかったが、その国の歴史に名を残した名ボクサーがきっといるだろうから。
(8−12−09)
7月26日の井岡一翔第2戦、セミファイナルの国重隆の試合をマッチメークしたので、大阪へ行った。計量後は神戸の実家に一泊し、試合当日はタイの選手と一緒のホテルに泊まった。彼らは翌日、朝早い便だからだ。
朝5時半に起き、彼らとともに関西空港へ行き、チェックインカウンターまで導いてから、8時45分発の羽田行きに乗った。9時55分に着き、家内と浜松町で合流。
このたび、毎日書道展の最高の賞である会員賞を、私が師事する徳村旭厳先生が受けられた。六本木の国立新美術館にその展示がある。それを二人で見に行った。
毎日書道展というのは、昭和23年に開かれた全日本書道展が、翌年、日本総合書芸展に変わり、昭和26年より現在の名称となった権威あるものだ。今回が61回目だが、約35,000点の出品があったという。その中から各分野、すなわち漢字、かな、近代詩文書、前衛書、大字書、刻字、篆刻で、33名しか選ばれない。
千葉県の書道展などではよく入賞されていたが、徳村先生にとってもこれだけ大きな賞を受けるのは初めてだろう。非常にめでたい。
国立新美術館に入る前、先生に携帯で電話した。以前、先生の作品を見に行ったとき、出品数が多く、見つけるのに苦労したことがある。書道展に行くと、世の中にこれほど書道家、書道愛好家がいるのか、と驚くくらいの数の作品が並んでいるのが常だ。
「すぐ分かりますよ」といわれ、中に入ると、確かにすぐだった。会員賞の一番最初に近代詩文書部門の先生の作品が掲げられていた。しかも、顔写真つきだ。力強く、非常にいい字だ。感動した。
毎月、手本をいただき、私の拙い作品に添削を頂戴する。その先生が書道家としてこのような栄誉を受けられた。美術館にいるあいだ、私は高揚した気分を味わった。
後楽園ホールで知り合って五年目だが、先生は努力を継続し、今回の最高賞入選まで成長された。それに敬服する。
七月は神戸の世界戦以降、夏ばて気味で、書道も怠けがちだったが、「こんな立派な先生に指導されているのだから、頑張らねば」と喝を入れられた気がした。
ささやかな祝いの品を贈らせていただいたが、改めて祝いの言葉を述べる次第である。
(8−8−09)

7月14日の神戸での世界戦の前だ。両タイトルマッチでオフィシャル(レフェリー、ジャッジ)は10名。そのうえ、メキシコのジャッジは娘と息子を同行。毎日、計12名の世話をしていた。
計量の前日、神戸の街を散歩しよう、と呼びかけた。付いてきたのは9名。残り3名は時差ぼけのためホテルで休みたい、といった。
24歳まで神戸に住んでいたので土地勘はある。不案内なのは、私が神戸を離れてから出来た埋立地、ポートアイランドと六甲アイランドだけだ。それ以外は、須磨から三宮までどこもよく知っている。
私を入れ10名というのは、タクシーで3台になる。それは不経済だ(つねにプロモーターの経費削減を考えるから)。われわれはポートアイランドのPホテルに宿泊していたので、三宮まで無料シャトルバスで移動する。
連れて行きたいのは、ポートタワー(神戸が一望のもとに見渡せる)とハーバーランドだ。
三宮からJRで1駅、元町まで出た。中華街を歩き、そこからポートタワー、ハーバーランドまで歩く。帰りは、元町本通り(ショッピングアーケード)から三宮のセンター街(これも同じ)を歩き、元の無料シャトルバス乗り場まで戻る。彼らが疲れれば、途中、喫茶店に入りアイスコーヒーでも飲もう。
神戸の中華街は南京町といわれ、横浜のそれほど大きくはないが、外国人が歩けば、色華やかで楽しい。途中、雑貨店に入った。中国風の土産物店だが、彼らを冷房のきいた店内でひと休みさせるためもあった。
ポートタワーへ行こうとすると、メキシコのジャッジが「疲れたから、ここで帰る」といい出した。「大丈夫? ホテルに帰るには」と説明し、彼ら(父、娘、孫)と別れた。ポートタワーで観覧料を払おうとしたとき、1人足りないことに気づいた。「Sはどうした?」というと、みんな三々五々話をしながら歩いてきたので、分からないという。一番方向音痴のような男を途中で残したことになる。
ポートタワーに登り、目と鼻の先にあるハーバーランドで行こうか、というと、タワーから見ただけで十分、と彼らはいう。そこで、元町、三宮を歩いて帰った。途中、スターバックスで予定通りアイスコーヒーを飲むと、彼らは日本の蒸し暑さに閉口していたのか、なかなか腰をあげない。
元町本通り、三宮センター街を歩くのは久しぶりだ。特に阪神大震災後は初めてだ。昔あった店(海文堂、後藤書店など)がまだ残っていた。途中、センター街に洋書店があったので、彼らに「5分だけ待って欲しい」といって、そこに入った。「ボクシングの本はありませんか?」というと、「デンプシーの伝記なら1冊あります」といわれたが、それには興味がない。ジャック・デンプシー、ジョー・ルイス、ムハメド・アリの伝記なら何冊も読んだ。「Kafka On The Shore」という村上春樹の翻訳書が平積みされていた。
元町から三宮の距離感が違うように思えた。こんなに距離が短かったかな、と感じた。
バスターミナルまで歩き、彼らと別れた。私は伊丹行きのバスに乗り、ゴールデンボーイ・プロモーションのDIを迎えに行った。
ホテルに戻ると、すぐSに連絡した。S(米国人)はメキシコのジャッジ一家が引き返すのと出会い、あとは一緒に行動して無事ホテルに帰ったそうだ。
それ以降は、どこへ移動するときも、ジョークでSと腕を組み、「僕はもう君を離さないぞ。また見失うと困るから」といった。ホテルから会場のワールド記念ホールまですぐで、目の前に見えているのだが。
子供の頃、遠足で一生懸命、全員そろったかを確認したことを想い出した。いつも誰かはぐれて、それに責任を感じて右往左往した。だから、遠足は楽しくなかった。
それと同様、ダウンタウン(繁華街)の散歩も私ひとりで面倒を見切れる人数は限られている。せいぜい5人だ。それ以上だと、つねに人員の点呼をしないと、今回のようなことが起きる。
帰途、元町で後を振り返り、眼で数をかぞえているとき、自分が神戸でなぜこんなことをしているのか、奇妙な感じを覚えた。
(8−7−09)
久しぶりに「ひとりごと」を開くと、まる一ヵ月も更新していない。マッチメーキングのことは企業秘密だし、立場上書けない(発表するのはプロモーター、会長だから)。堅苦しいことを書くのは無粋だ(結構書いているが)。日常茶飯事のくだらぬことなら書く必要がない。仕事や生活の愚痴をいっても仕方がない。となると、書くのは読んだ本のことか、書道(この頃、蒸し暑さのせいか、ペースダウンだが)のことになる。 香港へ行く前、空港の書店で「英語対訳で読む日本の歴史」(実業之日本社)を買った。副題に「The Japanese History with simple English」と書いてある通り、英語力のある人なら辟易するくらい易しく注釈が加えられている。 |
この手の本は他にも持っていて、「英語で読む日本史」(講談社バイリンガル・ブックス)と「中学英語で日本の歴史が紹介できる」(エール出版)がある。こういった本を読んでアンダーラインを引いておき、ときにその箇所を読み返すと、外国人に日本の歴史を説明するときに役立つ。 以前、世界タイトルマッチの前、オフィシャル(レフェリー、ジャッジ)のため二重橋までドライブした。車を停め、彼らの疑問に答えていた。 「Emperor(天皇)とShogun(将軍)、そしてShogunate(幕府)はどう違うのだ?」という質問だった。 天皇はauthority owner(権威の所有者)、将軍はland owner (領地の所有者)。将軍の政権(political administration)がShogunate。将軍がpower owner (権力の所有者)であった時代が長く続いたが、Meiji Revolution (明治維新、すなわち明治革命)で、天皇にpowerが移った。そんな説明をしたように思う。 薀蓄を垂れていると、警官に「こんな所に駐車しては困る」と注意された。ところが、一人は遠く二重橋の方まで行ってしまった。「呼んできて、すぐ車を動かしますから」と謝ったことがあった。 |
WBC総会が韓国のソウルで開催されたとき、北朝鮮との国境、板門店までみんなで観光に行った。あのとき、韓国人のガイド(兵士の服を着ていたから軍人か)の説明が非常に上手かった。英語も巧みで、要領を得ていた。毎日、観光客に同じことを喋っているので、あのように要領よく自国の歴史を流暢に話せるのか、と思った。普通の人は、自国の歴史を外国人に説明する必要も機会もないだろう。ところが、国際マッチメーカーはその必要も機会もある。それなら、多少勉強しておくべきだ。問われて、日本の歴史も答えられないと恥ずかしい。だから、この手の本をときどき読む。 そして、いずれ日本ボクシング史を英文で書くときの参考になる。大きな書店の洋書売り場へ行くと、もっと厚い外国人向けの英文の日本史の本がある。一冊いい本があり、それを買ったが、これはボクシングの洋書を読むほどには楽しくなくて、中断したままだ。 私の英語での日本史説明能力は、あの韓国のガイド以下だな。ちょっと恥じないといけない。しかし、何でもかでも、そう理想通りにはいかない。 (8−2−09) |