ジョー小泉のひとりごと 2009年5〜6月


コンパクト世界地図帳

当初、毎日「ひとりごと」を書くつもりだったが、なかなか時間がとれない。私の場合、「ひとりごと」を妨げるのは、読書と書道だ。

香港へ旅立つ前、空港第2の書店でふと平積みの地図を見た。
「コンパクト 世界地図帳」(昭文社 1,000円+税)だ。

WOWOWエキサイトマッチの両選手の資料(戦力比較表と呼ぶ)は私が作っている。毎回、青息吐息だが、スタッフ全員の資料になるし、解説者として予習になる。

ときに耳慣れぬ地名が出てくる。最近、欧州での世界戦が増えてきたからだ。そのときは地図帳を引く。会社には大きい「世界地図帳」(これも昭文社;英文と和文が併記してある)がある。これは真闘ジムの佐々木会長にもらった。「ジョーさん、地図いるかい」といわれ、「じゃ、一冊ください」と受け取った。自宅には、「世界地図帳 グローバルアクセス」(昭文社;i色が見やすい)を置いている。

本を読んでいるとき、ふと地図を見たくなるが、立って大きい地図帳を取りに行き、それを開くのが億劫だ。

ところがこの「コンパクト 世界地図帳」なら、寝転がって本を読んでいるとき、片手で頁を開き、場所を確認できる。サイズが文字通りコンパクトで軽くて薄く、非常に気に入っている。


以前、このサイズの小型地図帳を愛用していた時期がある。洋書店で見つけた「Philips’ POCKET ATLAS of the World」だ。若い頃、洋書ばかり読んでいた頃、この本(すべて英語)を活用した。この地図帳の難点は地名を書き込みすぎて一寸見にくいことだ。

「コンパクト 世界地図帳」の特長は、国名、面積、人口、首都、言語、民族、宗教、通貨単位、レートが見開きの一覧表になっていることだ。2009年2版なので、データも新しいはずだ。この部分は、WOWOWの資料として利用することがある。

旅行の前、空港で本を買うと、街の書店とは品揃えが違うので、思いがけない本に出会うことがある。

この小型地図帳で一番最初に引いたのは、ホルヘ・リナレスがメキシコで防衛戦をするヌエボ・ラレード(Nuevo Laredo)だ。これはメキシコ側にあり、国境を隔ててラレード(Laredo)がある。まるでエル・パソ(米国内)とシウダ・フアレス(メキシコ内)のように隣接している。

ボクシング・ファンはWOWOWエキサイトマッチを見るとき、たまに地図を引いてみるといい。世界が広がる。
(6−24−09)


若者は危険をめざす

香港へ行ったのは、わがstepdaughterがオーストラリア人と結婚することになったので、相手側の両親と会い、婚約披露パーティに出席するためだった。両人とも香港で働くストック・ディーラーなので、いいカップルだ、と思う。

成田空港を発つ直前、書店で3冊の本を買った。わずか3泊4日の旅なのに、7冊の本を持って行き、そのうえプラス3冊だから10冊を持参したことになる。テーブルの上にそれを積んでおき、興味がわいた本を手に取る。根が気まぐれだから、この選択肢のある読書が私には向いている。

ある日、外出して戻ると、その10冊すべてにホテルの栞(しおり)が挟み込んであった。「余計なことをするなぁ」と、読了前に自分の本に触られるのが嫌いなので一寸不快になった。ところが、この栞が結構役に立ち、あとで感謝した。

成田空港で求めた3冊のうちの1冊が、『アジア「裏」旅行』(平間康人著、彩図社、552円)だ。笑ったのは、著者の独断と偏見による“アジア危険度マップ”だ。危険度、性悪度、美人度の3項目で各国を評価している。たとえば、インド(私は行ったことがない)は危険度4(5段階評価)、性悪度4、美人度5。フィリピンは順に5、3、3。

韓国、比国、タイならこの著者に負けぬほど旅をした。ボクシングを見るのが目的だったから、あぶない時間にあぶない所には行かなかった。だから、この著者のような経験はほとんどない。

ホテルの選択が危険度と関係する。安くて危ない地区のホテルに泊まれば、こんな危険な目に遭うこともあるのか、と半ば驚き、半ばあきれた。私はビジネスが景気がよかった頃に頻繁に旅行をしたので、いつもいいホテルに宿泊をした。ホテルの料金というのは、安全性(safety)も含まれている。

読んでいて、クスクス笑ってばかりいたので、隣の家内にけげんな顔で見られた。

楽天的な若い日本人旅行者に一読を勧める。アジアは恐い所へ行けば本当に恐い。
(6−2−09)


親子丼の鉄人

家内は料理研究家で、よく外出する。私は独りでいるのが好きだから、別に気にならない。たとえば家内が1週間、ドイツやイタリアへ出かけたとき、普段よりよく本を読め、よく書道が出来た。洗濯もノープロブレム。

問題は昼食だ。私は午前中にトレーニングに出て、あとは本を読むか、テープを見る(週日の朝は書道をしない)。普通、家内が何か昼食を作って出て行くので、それを電子レンジにかけCNNニュースかボクシングのテープを見ながら食べる。それから出社する。

数週間前、土曜の夜、堺正章の“チューボーですよ”で親子丼(わが好物)を作っていた。寝る前、それを見ていて、「あれなら自分でも出来る」と思った。

翌日、家内に作り方を教わった。私は辛すぎず、甘すぎず、卵は半熟よりもやや固めを好む。家内の指導の下、それを作った。その美味なこと。私が半生で食べた親子丼の中の三本指に入るほどだった。

「私はこと親子丼に関しては料理の鉄人だ」といった。

翌日、家内が出かける前、「今日は、自分で昨日のように親子丼を作るから、昼食を用意しなくていい」といった。

朝のトレーニングで腹は減っているし、今日も美味い親子丼を作ろう、と思った。ところが、昨日のように家内が側にいて指導してくれるわけではないので、具を煮る火加減がよく分からない。しばらく煮ていた。先に卵をとかず、そのまま鍋に入れ、「しまった」と思った。卵を鍋の中でかきまぜたが、鶏とネギにまんべんなくいきわたらない。

「まあ、いいか」と丼のご飯の上に移すとき、手元が狂った。外観はまるでドッグフードだ。食べてみるとまずい。わが半生で食べた親子丼のワーストスリーに入るほどだ。

煮すぎて汁がほとんどない。まるでドライ親子丼だ。自分で作ったので我慢して食べたが。

作りながら、テレビに映っている試合を1ラウンド見ていたのが悪かった。あれで煮すぎた。料理というのは作っている間、他のことをしてはいけない。その時間(数分間)に何か他のことをしようとするから、この体たらくだ。私には料理の才能がないようだ。
(6−1−09)


田岡先生への礼状

この前、書道展に行ったとき、拙書を田岡正堂先生に贈呈した。
「ボクシング珍談奇談」、「つねに強気で生きる方法」、「ボクシング・マッチメーカー」など十冊ほどだ。

徳村旭厳先生から田岡先生の色紙「初心」が届いた。掛け軸も同時に頂戴したが、わが家には床の間がない。居間にそれを飾り、毎日見ている。ボクシング狂少年だった昔を忘れるな、という自戒のためだ。そして、向上心、向学心を持っていた頃の初心を忘れるな、というためもある。


一日に一度、いい字を見ると、生きる気がする。いいものを頂いた。そこで、田岡先生に礼状を書いた。

高名な書道家の先生に筆で手紙を書くと、緊張する。あまりいい字が書けなかったが、現在の自分の力はこの程度のものだろう。書き直しても、同程度のものしか書けない。

手紙を投函して、何か気恥ずかしい感情が起こった。もっと若く書道を始め、稽古の時間を充分とれれば、もう少しましな字を書けるのだが、こう忙しいと上達はなかなか難しい。徳村先生に丁寧な添削を受けながら、向上しないのが申し訳ない。

私は出した書状のコピーをとる。何年か後にそれを振り返り、その稚拙さを反省する。前に出した手紙が下手に見えるということは、多少なりと進歩していることになるのかもしれない。


ときどき、自分の頭のわるさ、能力のなさ、決めたことを持続的に実行できない無能さに情けなくなることがある。自己嫌悪である。それでも生きていかねばならない。それが辛い。

自分でできることを一歩一歩、地道に継続し、倒れるまでが勝負だ。自分の語学力、知識、思考力において、どこまでそれを伸ばせるか。一日一日を真面目に生きるしかない。特に書道はそうだ。筆を執らない日を作ってはいけない。ただでさえ練習時間が仕事のため限られているのだから。
(5−31−09)


パンデミック

4月29日の速報メール「読書のすすめ」で「パンデミック」(小林照幸著 新潮選書)を会員に推薦した。豚インフルエンザ(Swine Flu)の脅威が伝えられる中、この本は非常に興味深い。

「海外で発生した感染症をアップデートしているサイトも紹介してあるし、感染症にかからないための注意も詳しく書かれている」とメールした。

事後談がある。
パンデミック(世界的流行)に関して、この本より前に何か読んだことがある。
それを探そうと思いながら、見つからぬままだった。

思い出したのは20日、香港へ出かける前、持っていく本を選んでいたときだ。
「科学で見る世界史」(Gakken Mook; 1,365円)。

第3章 病が世界を動かす病原微生物流行史
の中に

マラリア ローマ帝国を衰退させた病

ペスト 近世ヨーロッパの扉を開く恐怖の鉄槌

天然痘 新大陸の真の征服者

梅毒 宗教改革を盛り上げた性の病

結核 産業革命の招いた闇

スペイン風邪 第1次大戦を終結させたインフルエンザ

新型インフルエンザH5N1型 現代の新興感染症の脅威
という項目がある。


その最後に現在世界で騒いでいる新型インフルエンザについての説明がある。

小林氏の本を読む前に頁をめくっていたのに、その細部はあまり記憶に残っていなかった。

香港へこの2冊を持参し、再読した。
香港では、インフルエンザなどどこ吹く風だ。マスクをしている中国人は皆無に近かった。

「日本政府が来るべき選挙のため、管理能力を国民にアピールし、政権担当能力を誇示する場として利用しているだけだ。これはただのインフルエンザだ」という意見を聞いた。

香港は中国でも特殊な立場にあるので、北京では結構神経質になっている噂も耳にした。

このMOOK本の後に参考文献の欄がある。
1.「感染症は世界を動かす」(筑摩書房)
2.「感染地図」(河出書房新社)
3.「H5N1」(ダイヤモンド社)
4.「H5N1型ウィルス襲来」(角川SSコミュニケーションズ)

1と2は読みたい。3と4は新型インフルエンザが猛威をふるい出したら読もう。
「科学で見る世界史」でちょっと歴史観が変わった。

最近の学生はいいな。カラーの素晴らしい図解で勉強できる。その点がうらやましい。若者たちはあまり本を読まないし、昔の教科書を知るはずもないから、その恩恵がわからないのだろうが。
(5−27−09)


香港で考えた空想劇

いま香港にいる。
これはこの地でふと考えた空想劇(フィクション)である。

香港で、ある書道の大家を訪ねた。老齢だが眼光は鋭い。その中国人がいった。「私には昔、日本人の弟子がいた。彼は軍人だった」と。

(ここから劇中劇になる)
小泉中尉は中国人捕虜たちの看守を担当していた。あるとき以前習った「論語」を記憶のまま漢文で紙に書いた。それをどこかに捨てた。行間に朱を入れた紙が中尉の元に返ってきた。

「この朱の字を書いたのは誰だ?」と中尉は詰問した。素晴らしい筆跡だったからだ。
「それは私だ」と捕虜のひとりが答えた。

「あなたは書道家か?」
「その通り、私は書聖王義之の流れをくむ一族のひとりで、書法(中国では書道のことをこう呼ぶ)を教えることを生業(なりわい)としていた、この戦争が始まるまではな」

その朱の筆跡に感動した中尉はいった。
「私にその書法を教えてもらえないだろうか」

以後、捕虜の書道家と看守の中尉の奇妙な師弟関係が続いた。


ある日、中尉は書道家に別れを告げに来た。
「先生(周囲に人がいないとき、中尉はそう呼んだ)、私は前線に出ることになりました。短い間でしたが、ご指導ありがとうございました。書法の深さが分かりました。王義之、王献之、智永、虞世南、欧陽ジュン(言に旬)、チョ(衣編に者)遂良、孫過庭、顔真卿、蘇東ハ(土偏に皮)、黄庭堅、米フツ(草かんむりに市)、趙子昂、祝允明、文徴明、董其昌、王鐸などあまたの名蹟の臨書のご指導を賜り、感謝しています。お互いこの戦争を生き延び(survive)、また再び会える日が来れば、またご指導ください」

その中尉は戦死する。まだ三十に満たぬ若さだった。

(ここで現代に戻る)
「その中尉は何という名前でしたか」
「小泉義弘とかいったな。君の名は王義之の“義”、五筆和尚、空海こと弘法大使の“弘”を併せ持つ、いい名前だから、修行に励むよう勧めたものだった」

「先生、それは戦死した私の叔父です」
「(絶句したのち)何という奇遇だろう。戦争というのはこのような皮肉なドラマを作るものだな」
二人は手を取り合う。
The End
(5−21−09)


村上春樹はおかしい

小説家の村上春樹(敬称略)が2月にイスラエルでエルサレム賞を受け、スピーチをした。それが週刊朝日に載り、ついで文芸春秋に英文つきで掲載された。それを読んで違和感を覚えた。何かおかしい。多忙のため、そのままにしていた。

最近、「入門!論理学」(野矢茂樹著 中公新書)を読んだ。昔、読んだ「論理学の方法」(W.v.O.クライン 岩波書店)を復習する前のウォーミングアップのような読み方だった。この野矢という東大の先生の書き方は非常に現代風だ(ここまで若者に歩み寄るのか、と驚くほどナウい)。


私が覚えた違和感を説明しよう。
その前に村上春樹のスピーチの一部をとりあげる。

「もしここに硬い大きな壁があり、そこにぶつかって割れる卵があったとしたら、私は常に卵の側に立ちます。
そう、どれほど壁が正しく、卵が間違っていたとしても、それでもなお私は卵の側に立ちます。正しい正しくないは、ほかの誰かが決定することです。あるいは時間や歴史が決定することです。
(中略)その壁は名前を持っています。それは「システム」と呼ばれています」

私が問題とする部分、「そう」で始まる文章を、村上春樹がイスラエルで話した英文で引用する。

Yes, now matter how right the wall may be and how wrong the egg, I will stand with the egg.

翻訳者のジェイ・ルービンという人に英訳してもらったらしいが、ここのstand withはstand by (を援助、味方する)の方がいい、と思う。

いま、
A=壁は正しい
B=卵は間違っている
C=私は卵の側に立つ
とする。

「壁が正しく、卵が間違っていたとしても、それでもなお私は卵の側に立ちます」と村上春樹が言った背後には、次の前提が隠されている。

Aの否定=壁は間違っている
Bの否定=卵は正しい
C=私は卵の側に立つ

壁が間違っていて、卵が正しい場合、もちろん、私は卵の側に立つ。さりながら、逆の場合、たとえ壁が正しく、卵が間違っていても、(その場合でさえも)私は卵の側に立つ。

そういう意味だろう。
ここで、もう一度くくりなおす。前述のA,Bは一旦、忘れる。
A=壁が間違っていて、卵が正しい
B=壁が正しく、卵が間違っている
C=私は卵の側に立つ

これは野矢教授の本(181頁)でいう「いずれにせよ論法」だ。
「AまたはB、AならばC、BならばC → C」
英語で書けば、
Regardless of A or B, C
となる。


私の違和感の根源はここにあった。村上春樹を論駁するつもりなどない。ただスピーチ原稿を読んでいて、おかしい、と思っただけだ。

なぜ違和感を持ったのだろう。
卵=個人
壁=システム
とする。

私(村上春樹)はいかなる場合でも個人の側に立つ、という。それはそれで彼の所信、信念だ。とやかくいうことではない。「ああ、そう」で済む話だ。

だが、私は違う、きっと違う(小田和正)。
卵(個人)が正しい場合は、卵の側に立つ。
しかし、卵が正しくない場合は、卵の側には立たない。

論理式を持ち出すまでもない。
反例をあげればいい話だ。
社会の敵がいるとする。たとえば監禁事件を起こした金嬉老、あるいは銀行立てこもり犯、学校に侵入して罪もない小学生を殺傷した男、山口母子殺害事件を起こした少年など。
おのおのが卵だ。

村上春樹はこのような卵(悪い卵だろう)でも、卵の側に立つのだろうが(それは彼の自由だ)、私はそんな卵の場合、卵の側には立たない。社会(システム)の側に立ち、犯罪者である卵を憎む。

壁を構成しているのも、卵ではないのか。
国家、社会、官僚、役所、機関、警察――もろもろが、システムであり、かつ卵の集合なのではないか。システムもまた卵により構成されている。カフカの「城」の中にいるクラムや門衛も卵である。

壁と卵という単純な二分法で考えるから、幼稚な議論になる。壁も卵で出来ていると考えるのが真ではないか。


村上春樹は言う。
「爆撃機や戦車やロケット弾や白燐弾や機関銃は、硬く大きな壁です。それらに潰され、焼かれ、貫かれる非武装市民は卵です」と。

では、爆撃機や戦車やロケット弾や白燐弾や機関銃を操っているのもまた卵(個人)ではないのか。

もうやめよう、疲れた。
私も小説を一編(天使と少年)書いたが、本職の小説家ではない。愛読者ではないが、「風の歌を聴け」には感心した。あとの作品、羊や狸が出てくる話はちょっと付いていけなくて、以後読むのをやめた。しかし、村上春樹の小説家として才能は認める。

そして、村上春樹が神戸高校1年のとき、私は兵庫高校3年だから、旧神戸一中、二中のラグビーやサッカーの対抗戦のとき、反対側のグランドで応援をしていたわけだ。

私は違和感を覚えたが、あのエルサレムにおけるスピーチはきっと国際的、文学的には評価されるだろう(論理的には問題があるとしても)。村上春樹がノーベル文学賞をもらえば、同時代人、同県人として嬉しい。何だ、最後は応援歌になってしまった。
(5−17−09)


なぜ落語さえ聞けないのか

落語が好きになったのは親父の影響だ。近衛兵で東京にいた間、親友とよく寄席に行ったそうだ。子供の頃、まだテレビがなかった時代なのでラジオが娯楽だった。父はクラシックと落語を愛好した。音が鳴っているから、一緒に聞いた。昔は落語の放送がとても多かった。

長じて、ユーモア、エスプリ、諧謔といったものが好きになった。ユダヤ・ジョーク集のような本とともに落語の速記本を読むようになった。落語は通の人たちが多いので、あまり通ぶるつもりはないが、ちくま文庫の古典落語集はほとんど読んだ。

安藤鶴夫「わが落語鑑賞」、「寄席はるあき」
宇野信夫「私の出会った落語家たち」
江国滋「落語手帖」
興津要「忘れえぬ落語家たち」
など落語関連の本もよく読んだ。

小学館が昭和の名人26巻を出したので、それを申し込んだ。できるだけ年間購読などはやめる方針だったのに・・・。TimeやNewsweekをやめ、学生時代からずっと取ってきたJapan Timesもやめた。溜まると読まねばというプレッシャーになり、本来読むべきものの優先順位がくずれるからだ。それは気が向いたとき、本屋や駅で買う。

落語全集は隔週刊だ。2週間に1部ずつ届く。中にCDと解説書が入っている。高柳アナウンサーも落語愛好家で、書店で買っているという。バラ売りがあるとは知らなかった。忙しくてまったく聞けない。濃い緑色の袋に入った通販の落語全集がどんどん溜まっていく。


余暇において運動、読書、書道の優先順位を守ると、落語を聞く1時間がとれない。自分で自分に腹が立ってきた。なぜ聞きたいものを自制してまで、ノルマを自分に課すのか? 不自然ではないか。2週間に一度、なぜ1時間が生み出せないのか?

それは”ながら族”をしないからだ。本を読むときは読書に集中。字を書くときは書道に集中。音楽をかけて、読書や書道はしない。特に読書のときは、読んだことを記憶のひだに刻み込もうとするから、あらゆる音が、たとえモーツアルトでさえも、雑音になる。

書道のときに落語を聞くのはどうか。それ以外ない。そこで、習字をしながら、溜まっていた落語全集を聞いた。

これまで聞いたのは
1.志ん朝 壱
2.志ん生 壱
3.小さん 壱
4.円生(正しくは国構えに員)
5.志ん朝 弐
6.文楽 壱
7.小さん 弐
8.金馬 壱
9.志ん生 弐
10. 正蔵(彦六) 壱
やっと追いついた。

落語家の好みというのは、ファンがボクサーを好むのに似ている。個人差がある。誰もが文楽、志ん生、円生を好きではないように、アリ、タイソン、レナード・ファンばかりではない。アリ、タイソン、レナードの試合ばかり見ていると飽きるように、文楽、志ん生、円生だけが落語ではない。

「どの落語家が好きか」と聞かれると困る。落語そのものが好きなのだ。話を進めていって、ストンとさげで落とす。

まくら=ジャブ
本題=攻撃
さげ=カウンターKO
のような感じだ。

落語について文章を書き出したことがあり、題を「私は落語がわからない――落語の構造」とした。世の中に落語通が多い中で、人が気づかない、おのおのの噺のおかしさ、話(スト−リー)のポイントを指摘するつもりだった。最初、「文七元結」を書いてみたが出来がよくない。それで中断した。

落語というのはエンターテインメントだ。それを研究対象にしてはよくない。暇なとき楽しめばいい。自分の落語の知識を誇る必要はない。そう思うと肩の力が抜け、気楽になった。

もうやめよう。書道の時間だ。怠けると書聖王義之に申し訳ない。ただでさえ落語を聞きながら書いたりしているのだから。
(5−16−09)


類推読書法

非常に興味ある本を読了した。
「The Regulation of Boxing」、ボクシングの規制である。
副題は「A History and Comparative Analysis of Policies Among American States」とある。

著者はアルゼンチン系米国人の若い学者だ。米国各州のボクシング管理を調査、比較し、問題点を浮き彫りにする。さらに父母の祖国アルゼンチンについてもその調査をし、米国と比較検討する。

ボクシングを管理することの根本的問題点を指摘した労作である。久しぶりに英語の本を精読した。というのは、普段、「リング」誌や英国「ボクシング・ニュース」誌は速読しているからだ。この本は静寂の中で考えながら読むため、外出時に持ち出さず、もっぱら家で読んだ。

途中、各州の管理比較表はコピーをとりJBCに参考として提供し、増田茂氏には是非蔵書に加えるよう勧めた。WBCのスライマン会長(読書家だから、もう読んでいるかもしれないが)にも一読を進めたいが、中にWBC批判の部分があり、その点で逡巡している。


今回は精読したが、普通はかなり速く英文を読む。私に特技と呼べるものがあるとすれば、そのひとつは英文速読だろう。学生時代、そのコツを書いた英文の本を何冊か読み、自分でも工夫した。情報の氾濫で最近、いろんな速読法の本が書かれるようになったが、欧米、特に米国ではかなり前から眼球の高速移動などFast Readingの技術が研究されてきたようだ。

私の速読法は「類推読書法」とでも呼ぶべきものだ。類推、すなわちAnalogyを活用して読み進む。

普段、辞書を引くとき、その言葉だけでなく派生語(動詞、名詞、形容詞、形容動詞など)をすべて読む。できれば、辞書の頁全体に目を通す。似たようなスペルで意味が違う言葉にも目を走らせる。確かに時間がかかるが、頭のどこかに記憶が残り、飛躍的に語彙(vocabulary)が増える。

読書はリズムだ。興味を持って読み出したら、波に乗ったように出来るだけ推進力に任せて前に進む。できるだけ辞書を引かない。文意、大意をとらえ、要点を追っていく。

もし知らない単語が出てきたらどうするか? そこで「類推」を使う。普段、精読のとき派生語や頁全体を眺める習慣から、たいがいの単語は初見ではない。だから、多分こんな意味だろうと類推し、よほど重要でその意味が分からないとあとの読書に支障が出るようなキーワード以外、辞書を引かずに読み進む。

ともかく全体をより早く読み終える。英語の厚い本の場合、読む速度が重要になる。スピードがないと、途中で挫折したり、前に書いてあったことを忘れる。一旦読了してから、アンダーラインやチェックをしたところを読み返す。速読の目的は、この読み返しの時間を生み出すことである。再読のとき見出しやすいように、頁の余白に自分なりの見出しをつける。

私は英語でものを書くライターなので自分が将来使うかもしれない言葉は単語帳にメモしておく。そのとき、派生語も付記する。

「類推」の精度を上げるためには、多く読むことである。パソコンのWORDが書き込むほどに学習能力を発揮するように、多読が単語の意味を類推する精度を高める。

要は、語彙を努めて増やすことが英文を読む基礎だ、と思う。日本語で新聞、雑誌、本をすいすい読めるのは言葉を知っているからだろう。普通、いちいち国語辞典を引かない。分からない単語に出会ったとき、たとえば漢語ならその漢字から意味を類推するのではないか。同じことを英文を読むとき応用するだけの話だ。

私にはいつも語彙を増やそうという意志がある。自分で書く(あるいは考える)ときの道具としての言葉を増やし続けたい。科学の言葉、法律の言葉、医学の言葉など、それを知ればたやすく表現できることがあり得る。

余談になるが、大阪で世界タイトルマッチがあり、いつものように心斎橋のホテル日航に泊まった。昼間、御堂筋の先の心斎橋筋を右に曲がった書店に入った。そこで、「英単語飛躍増殖辞典」(島岡丘著、名前はおかでなく、たかしと読む;創拓社)を手にした。本当に驚いた。こんな辞書があればいいな、他の人が書かないのなら、自分が書いてやろう、と考えていた本がそのままあった。驚愕と落胆と嫉妬に似た感情を持った。

長野の高校の英語の先生、東海周二氏に招かれ、英語学習法の講演をしに行ったことがあった。そのとき、学生たちにこの「英単語飛躍増殖辞典」を勧めた。私は若い頃、ラテン語をかじったことがあり、それがかなり現在の英語の語源になっていることを知った。だから、語源から英単語を覚えるのがひとつの方法だとアドバイスした。小布施にまた行きたい。


本を紹介したついでに、もう一冊。私がスペイン語圏に行く前、復習する本だ(最近、日常的にスペイン語を使う機会が少なくなってきたので)。身体の各部、病気、食事、交通、国家、産業、自然、文化、芸術、スポーツなど項目ごとに単語を集めている。食事の際、魚の名前をいうときなど、ポケットに入れておき一寸引いたりもする。

元に戻って「The Regulation of Boxing」だ。親が中南米人で、米国に移住してきた家族の子供たち、あるいはその孫たちが、学問、芸術、スポーツなどの世界で頭角をあらわす時代が来つつある。著者Robert G. Rodriguezに拍手を贈る。
(5−15−09)


田岡正堂書展に行く


習い事というのは不思議なもので、むきになって毎日稽古しているときは昇段せず、最近のように多忙のため練習できない日があるとき、ひょいと段が上がる。私の書道は三段になった。といっても楷書、行書くらいは書けるが、隷書と草書はまだ書けない。かなも未熟だ。

後楽園ホールで高校の先生をしている書道家、徳村旭厳氏に声をかけられ、以後、師事することになった。それがたしか四年ほど前だ。徳村先生の師、すなわち大先生が田岡正堂氏だ。田岡先生も高校の教師、日大の講師を勤められ、いまは書道家一筋だ。現在、七十五歳という。



今年、干支(えと)文字の切手が出た。現代の著名な書道家の作品を集めたものだ。真ん中の行の下が田岡先生の字だ。

田岡先生には一度上野の書道展でお目にかかり、挨拶をさせていただいた。浜田剛史氏の何かを書いたことがある、と言われた。温厚そうでいて、芯が強そうな芸術家の顔をしていた。その先生の個展がある。しかも、五日と十日だけは色紙に字を書いていただけるそうだ。



五日には八王子でマッチメークした試合がある。午後三時、第一試合開始。田岡先生のサイン会は一時からだ。一時間は先生の筆づかいを見ることができる。

一時十五分前に銀座の東京セントラル美術館に着いた。有楽町線の銀座一丁目のすぐ前だ。もう三十名くらいが並び、先生はもう書き始められていた。ただ名前を書くだけではない。短歌や俳句や四字熟語を書く。その横で弟子の徳村先生が落款を押す。

さすがプロフェッショナルだ。実に上手い。私は先生の姿勢、手首、肘、筆の紙との角度をずっと見ていた。私のように「上手い字を書こう」という力みがない。滑らかで、まさに流れるようだ。

書道というのはある意味で将棋や碁に似ている。達人はいわば職人、エクスパートで素人とは年季が違う。ボクシングの練習にたとえれば、反復回数が違う。私が色紙を書くと、十枚に一枚くらいしか気に入った、いいものが書けない。ところが、達人は最初の一枚から優れたものを書く。しかも、私のものなどよりずっと水準の高い作品を連続して書く。

正直いって、とてもかなわない、と思った。先生とは十三歳違う。仮に毎日朝から晩まで書き通しで習練しても、とてもじゃないが先生の域には達しないだろう。これまでの年季の積み重ねが段違いだ。私などまだ四年生だから。

私は読書を書道より上位に置く。そう決めた。ということは死ぬまでに書道をする時間は限られてくる。書道家にはなれない。では何のために書道をするのか。大先生が次から次へとすいすい書かれるのを見つめながら、自分自身に問いかけた。



私は何のために今後書道を続けるのか?
1.精神修養(名蹟を臨書することで心が鎮まる)
2.日記を書く(日々書く日記の字を磨くことで日記を書く行為が継続する)
3.手紙を書く(心のこもった手書きの礼状などを書くことに意味がある)
4.漢文、和歌、俳句の知識を増やす
5.日々の小さな努力の積み重ねが向上につながることを目の当たりにできる



日本人なのにまともな字も書けないというのは恥ずかしい。外国語の知識が少々あっても、日本語の古典さえ読めないのでは恥ずかしい。そう私は思い出した。

六十の手習いとはよくいったものだ。還暦を過ぎる頃になると、私の中で日本回帰が起こりだした。それがたまたま書道と重なった。私は後楽園ホールで徳村先生と出会ったのは縁だ、と思う。その縁がなければ、銀座を歩いて田岡正堂書展といっても美術館に入りもせず通り過ぎていただろう。

出る前、徳村先生に「田岡先生の手がすかれたら、『初心』と書いていただくようお願いできませんか」と頼んだ。それは私が好きな言葉だ。

大先生に比べれば、私などまるで手習いだ。苦笑しながら、タクシーで東京駅に駆けつけ、特別快速で八王子まで走った。三時開始には辛うじて間に合った。
(5−5−09)


WHAT DO YOU THINK?

月刊誌「ボクシング」を出されていた平沢雪村先生ご逝去のあと、噂があったそうだ。「弟子のジョー小泉があとをつぎ、同誌を継続するのでは」というものだ。ワールドの前田編集長からそんな噂を聞いたのは、先生が亡くなられて五年以上経った頃だ。

雑誌を出すなど思いもしなかったし、まだ会社勤めをしながら、トレーナーと寄稿家で精一杯だった。同誌は辛辣な批評家、平沢先生の個性が出た面白い本だった。

弊社リング・ジャパンでミニコミ誌を出し始めてもう22年になるが、あくまでRJクラブ会員への会報以上のものではなかった。このミニコミ誌自体はずっと赤字なので、一年間休刊したことがあった。一年後再開したとき、会員は半減していた。

私は毎号何か書いてきたが、編集は社員の誰かにずっと任せてきた。その担当が昨年末、退社し、以後、自分で編集をすることになった。

やってみると非常に面白い。寄稿家(RJ通信員、社友)と連絡をとり、自分自身も何か書く。原稿を督促し、届いた玉稿を拝読する。私はシステムを変更するのが好きなので、ちょっとした改善提案を実行する。たとえば、武蔵野印刷から会報が届き、それをアルバイトの学生が封筒に入れ、翌日郵便局から発送していた。ところが、以前から考えていたアイデアを同印刷の溝辺社長からいわれたとき、喜んで受けた。それは印刷と発送まで同印刷(郵便局の隣)に任せることだ。これで毎月、発送を一日短縮できる。




昨年は私の半生記序章を連載したが、今年は以前から試みたかったアンケート誌に変身した。毎月、テーマを決め、会員に意見を募る。「What do you think?」と問いかける。

一月号 公開採点制度の是非
二月号 日本はIBF、WBOを承認すべきか
三月号 日本人同士の世界戦、OPBF戦をどう思うか
四月号 辰吉問題
五月号 ボクシングのチケットをもっと売る方法

五月号は連休があったのでちょっと遅れ、八日(金)発送。
六月号のテーマは二つあり、
1. ラウンドガールは必要か
2. デラホーヤをどう評価する

同じことについて種々雑多な意見が出てくる。特に辰吉問題号は面白かった。

雑誌の編集というのがこれほど面白いのなら、雪村先生の月刊誌を継ぐのも悪くなかったかな、とも思わないでもない。だが、ミニコミ誌の「ボクシング・ファン」程度だから、「世界戦で忙しいから、今月は一週間遅らせよう」とか融通性がきくが、書店に並ぶ月刊誌となるとそう呑気に構えてはいられないだろう。私にはこのミニコミ誌程度が分相応なのだろう。
(5−8−09)


スポーツの図解

スポーツ・イラストレイティド、ボクシング・イラストレイティドという名の雑誌があったが、このILLUSTRATEDというのは「図解された」という意味だ。

ボクシング・ワールド誌で1年以上続けているのが、「ボクシングの図解」だ。私は科学の図解(Illustration)に興味を持つ。元がエンジニアなので抽象的な議論より、図解した説明を好む。同じテーマの本を求めるとき、できれば図が多い方を選ぶ。

トレーナー諸氏、あるいはボクサー諸君に3冊の本を勧める。

(1) 図解雑学「スポーツの科学」(なつめ社)

 教科書のように1頁目から熟読しようとすると、多分あなたは途中で挫折するだろう。だから、気まぐれに頁を開き、自分にとり役に立ちそうなところだけを拾い読み、つまみ食いする気持で読めばいい。見開きの右頁の図を見るだけでもいい。

 役に立つ項目をあげよう。
速筋と遅筋 スポーツの向き不向きを決める要素
柔らかい体にするには
フェイントの秘密
リラックスするための技術
スポーツがうまくなるには
スポーツ中に水はダメ?
スポーツに望ましい食事
など

 若い頃、スポーツ科学講座、全10巻(大修館書店)、現代のスポーツ科学、全8巻(これも同じ)を繰り返し読んだ。かなり難しかったが、自分がボクサーの世話をするうえで、それを熟読した経験が基礎になっている。

 生計のための仕事とトレーナー業とで忙しいトレーナーは、大学の体育学部の学生のようにこんなスポーツ科学講座の本を全巻読みきれないだろう。それなら、この図解雑学「スポーツの科学」を読んでみて欲しい。




(2) Q&A 実力発揮のスポーツ科学(大修館書店)

 これは最初の本より図が少ないが、Q(質問)とA(答)の形式になっているので、必要なところだけ拾い読みしやすいはずだ。

第3章 身体をきたえて勝つ
Q(質問)10 敏捷性のトレーニング
Q(質問)11 正しい減量
第4章 心をきたえて勝つ
Q4 集中力のつけ方
第5章 食べて勝つ
第6章 ケガを治して勝つ

結構日常のトレーニングに参考になることが書いてある。ただし、(1)の本よりは字が多く、ちょっと難しいかもしれない。




(3) スポーツ選手の栄養と食事(ベースボール・マガジン社)

 私が持っているのは1992年の初版なので、現在も販売しているかどうか分からない。万が一、絶版ならこのテーマの他の本でもいい。

 読書の習慣のないトレーナーやボクサーなら、できるだけ図が多く、頁が薄い本がいい。書店で頁を開き、「読みやすそうだな」と感じた本1冊でいい。

 熱心にジムワークはするが、食事はデタラメではボクサーとしていい筋肉がつかない。いい体質を作れない。体脂肪の少ない、筋力の高い体を作るのは、食事だ。

 この本にはボクシングにとり参考になることが書かれている。

第1部 スポーツ選手として知っておきたい食事と栄養の基本
Q10 試合に備えての食事
Q11 試合日の食事
第2部 スポーツ活動と栄養素のかかわりあい
Q31 水分補給について
Q32 発汗減量法について
第3部 スポーツ選手の食事と食事のとり方
Q39 夏場の食生活
Q47 夕方の練習でのばて対策
付録
3.ウェイトコントロールのための食事

 スポーツマンと食事の本は2,000円以下だろう。それを読むだけで、試合前の断食、脱水状態から解放され、試合によりよいコンディションで臨めるとしたら、その投資は安いものになる。

 「本なんか読んだって勝てるわけじゃない」と頭の古いトレーナーはいう。そんなトレーナーに限って勉強不足で、昔ながらの水絶ちの減量を選手に課し、最適なコンディションで選手をリングに上げることを怠る。現代のトレーナーは、選手に食事の指導くらいできなくてはいけない。体重制の競技なのだから。

 選手自身も自分を守るため、食事に関する最低限の知識は持つべきだ。
(5−4−09)