ジョー小泉のひとりごと 2009年3〜4月


反米大陸

いま興味のある外国は次の通りだ。
アメリカ、中国、タイ、韓国、ベネズエラ、キューバ、ドイツ、比国、英国、メキシコなど。

新聞の国際欄でこれらの国の変動を読む。仕事(国際マッチメーキング)のためでもあり、自分自身の興味のためでもある。

中南米に興味のあるボクシング・ファンは「反米大陸」(伊藤千尋著、集英社文庫)を読んでみるといい。中南米と米国の関係が説明されている。

中南米でその言動に注目しているのは、ベネズエラのウーゴ・チャベス大統領だ。その反米姿勢は強い。

最近、中南米諸国と米国が参集した会議で、チャベス大統領はオバマ大統領に本をプレゼントした。中南米の歴史の本らしい。「それを勉強し直せ」というジェスチャーだった。それをCNNニュースで見た(暇があれば、CNNを見るのが習慣だ)。




NEWSWEEKの4月22日号も面白かった。
世界中の指導者たちを略述している。

ウーゴ・チャベス大統領についての短い記述がある(47頁)。いまこの男が反米運動の中心源だ。

「リング」誌、英国「ボクシング・ニュース」、ボクマガ、ワールド誌などボクシング専門誌だけ読んでいると、ボクシングの実情が見えない。むしろ、国際情勢に目を向け、その変化を見ていると、ボクシングの流れが読めることがある。

地球儀に あまたの国が 散在す
(「地球儀に」を「リング上」と置換してもいい)
(4−28−09)


神戸散策

三月下旬、某大学へ行った。今秋から数回、講義に行くため、副学長はじめ関係者に挨拶をした。会食のあと、新幹線に乗り神戸の須磨の実家に一泊。

翌日は祭日なので、その日のうちに帰京すればいい。朝、須磨寺に亡父の墓参りに行き、そのあと神戸を歩いてから戻ろう、と考えた。一緒に行く約束の妹が垂水から来ない。WBCの中継があり、野球ファンの妹は「もう一回」といって来るのを延ばし、さらに「試合が終わってからでは」といい出した。

「親の墓参りと野球とどっちが大事だ」とあきれた。結局、野球狂の妹を置き、母と二人だけで須磨寺へ行った。母は今年八十五歳だが、まだ足が丈夫だ。実家から月見山を経て、須磨寺まで歩いた。阪神大震災のあと、月見山周辺が変わっている。昔、東須磨に住む高山一夫さんを月見山で見かけたことがあった。

高山の 強さ懐かし 月見山

彼岸のため、いつもより人が多い。バケツに水をくみ、線香を求める。亡父の墓を洗い、線香を立てる。単なる儀式だ。しかし儀式に意味があることもある。近衛兵にとられ、国は敗れ、戦後は技師として生き、五十九歳で若死に。父の人生は何だったのか、と思う。そのうえ、息子は出来損ないだ。父の希望にかなう立派な人間からは程遠い。

お彼岸に 線香けぶるや 須磨の寺

東京に帰る前、生れた場所から、小、中、高校までを歩いてみよう、と思った。神戸駅で降り、コインロッカーに荷物を預け、西出町まで歩いた。わが生地は区画整理のため、いまは道路になっている。立ち退いて須磨へ転居した。

西出町の稲荷神社はいまもある。そこから入江小学校があった所までの距離が記憶よりずっと近い。廃校になったのはずっと前らしい。その周辺を歩いていると、小学校があった証しとして碑が立っていて、その横に二宮尊徳の像がある。

尊徳が いまも見守る 入江校


従兄弟の一郎君が近くに住んでいるので、携帯で電話してみた。いた。「そこの公園にいるんだ」というと驚いていた。三時半から予定がある、とのことで、公園のベンチに座り十五分ほど話した。加藤周一のお別れの会の様子を説明した。昔、一郎君(高校時代、私は彼の家庭教師をしたことがある)に会うと、読んだばかりの加藤周一の本のことをよく話した。

「この入江小学校の脇を行くと、港があった」というと、その通りと言われた。彼と別れて、その港まで歩く。そこでもこんなに近かったのか、と距離間隔の違いにまた驚く。海の油くさい臭いをかいでいると、本当に神戸にいる感じがする。

蒼空に 重油のかおり 神戸港
(あの油の臭さが帰郷した人間にとっては芳香にように思える)


七宮神社を通り抜け、次は兵庫中学。国鉄の高架を通り抜けると、もっと遠かったはずの中学がすぐ側にあった。最近は、学校に侵入した男が事件を起こした例があるためか、「許可なく入ることを禁ず」という標識が貼られている。横に回り、運動部の生徒が練習している運動場を見た。子供の野球でホームランを打った記憶があるが、その壁までの距離がまた近い。「何だ、この程度か」と、心の中の誇りがくずれた。

五十五人のクラスが十九もあった。運動場に仮設教室を建てたり、大開の分校へ行ったりした。戦後だから、われわれbaby-boomerたちは数が多く、狭い空間を共有しあった。

神戸には親友がいる。地下鉄の新開地駅で喫茶店をしている八田だ。彼に電話し、兵庫高校への道筋を確認した。街があまりに変わっているため、見当がつかない。確か長田区の寺池町だったと思う。大開通りから上沢通りを歩き、街並みを眺めるが、昔の面影はのこっていない。この辺りに来るのは四十数年ぶりだ。近くまで来たが、兵庫高校につながる商店街が見当たらない。


八田にまた電話すると、「あの商店街は震災でもうない。周囲が変わっているから、戸惑うと思う」と言われた。付近で二度ばかり訊き、やっと兵庫高校にたどりついた。質実剛健、自重自治が校則だったが、その碑が立っている。名物のゆうかりの樹もある。テニスの練習をしている学生、すなわち後輩がいる。野球やラグビーのチームが大会に出る前、壮行会という催しがあった。全校生徒が座った、石のスタンドがある。それを眺めていると、昔の想い出がよみがえってきた。

青雲の こころざし想いし ゆうかりの葉

私は小学校から大学まですべて神戸の生粋の神戸っ子だ。いっそ大学まで足を運ぼうか、とも考えたが、この時間から六甲道まで出ると、東京に戻るのが遅くなるから、それは断念。

八田の店に寄り、コーヒーをご馳走になり、三十分ばかり話す。彼は早稲田を出たが、家業を継いだ。兵庫高校は最近、進学率が落ちていると聞いた。校風が自由すぎた嫌いがある。画家の東山魁夷や小磯良平、詩人の竹中郁が著名な先輩だが、芸術家向きの教育だったのかもしれない。

神戸駅まで歩く。よく歩くな、とわれながら思う。散歩のジョーだ。ロッカーから荷物を取り出し、JRで三宮まで、そこから地下鉄で新神戸駅まで。

なつかしの 神戸を歩き 日暮れかな

新幹線に乗って考えた。
自分はもっともっと自由な人間ではなかったか。
働きづめのため思考の柔軟性を失っていた。自分らしさを忘れていた。神戸っ子らしく、もっと気まぐれで伸び伸びしていないといけない。それが私だ。

疲れたら、ときに神戸に帰り、海を見よう。須磨の浜でも、メリケン波止場でもいい。海を眺めていると、きっと自分が戻ってくる。

ふるさとで 昔(いにしえ)想う 放浪者
(4−27−09)


人体の設計図

「人体 失敗の進化史」(遠藤秀紀著 光文社新書)を読んだ。
去年だ。とても面白い本だった。

あるとき、駅の近くの駐車場に車をとめ、計量に行って帰った(この駐車場で小田和正さんに声をかけられたことがある)。家内も外に出ていて、あと10分で駅に着くから待っていてほしい、と言われた。書店に入り、時間をつぶした。

パラパラと頁をめくっていたのがこの本で、家内が書店の出口で呼ぶので本を置きすぐ出た。家まで一緒に帰る途中、「やはりあの本を読みたい」といってUターン。

この本の骨子は、「ホモ・サピエンスの短い歴史に残されたのは、何度も消しゴムと修正液で描き換えられた、ぼろぼろになった設計図の山だ」という文章に集約されている。

この本を読んで、ボクシング人としては、身体のバランスの重要性が分かった。個人的には、柔軟体操を毎日、欠かさずするようになった。

著者は獣医学者で解剖学者だ。こんなに面白い発想をするのは大したものだ。

そしてこの著者は多分ボクシングファンだろう。
「頭蓋骨は、衝撃から脳を守る大事な障壁だ。また、プロボクサーが胸を強打されても大したダメージを受けないのは、何本もの肋骨が(中略)心臓や肺を守っているからである」

「腐り始めた遺体(私注:解剖のための動物の遺体のこと)が目の前に現れたときには、もう第一ラウンドのゴングは鳴っている」
といった記述がある。

著者のあとがきを読んでファンになった。ガッツがある。解剖学者というのはつねに遺体を求める狩人のような存在らしい。トレーナーが才能のある若者を求めるように――。
頑張れ、遠藤先生。
(4−20−09)


「スラムドッグ$ミリオネア」を観る

日曜の昼、ボクシングの興行があった。行きたくないな、習字をしたいな、と思いながらも、後楽園ホールへ向かった。結果は、消化不良の2回負傷判定だった。来なければよかった、本でも読んでいればよかった、と後悔した。読まねばならない本が山積みだ。

腹が減ったのでイタリアン・レストランでスパゲティを食べ、帰ろうとしたら、家内から電話があった。「映画観にいかない」という。そんなことをしている時間はないんだ。本を読まねば、書道をせねばと思いながらも、さっきの試合の消化不良感のためか、つい「いいよ」と言ってしまった。何か刺激が欲しかった。折角日曜、家を出たのに、あの負傷判定で帰るのは空しい。そんな感じがした。

駅には4時すぎに着く。映画館は隣の駅だ。映画が始まるまで1時間ある。隣の駅まで歩いて30分だ。「歩かないか。運動になる」というと、「何で30分も歩いて行かないといけないわけ」と反論する。

私が読書家としても書道愛好家としてもよくないのは、女(家内)に甘いことだ。いつもその誘いに乗り、時間を空費する。本来、机、硯(すずり)に向かわないといけないのに。

私のように労働中毒(Workaholic)の女房をしていると、人生が面白くないだろうな、といつも済まなく思う。同情する。その原因は私にある。やり出したら、止まらないのだ。意地で仕事をしているから、11時、12時、1時、2時に帰宅する。仕事が済んだときが、終わりだ。

「何を観たい?」
「スラムドッグ&ミリオネアっていって、アカデミー賞を獲った映画なの」

アカデミー賞など毎年あるんだろう。そんなものを毎年追っていたら、短い人生の時の浪費だろう。書聖王義之、あるいは空海と私との距離が縮まらないじゃないか、と思うが、家内の指示に従った。何か捨て鉢な気分になり、どうでもよくなった。

時間つぶしに文具デパートの書道フロアに行った。家内は「きっと人が並ぶはず」といって、先に映画館に行った。ものを買うまい、と思っていたのに、(1)一字名句墨場必携(木自社)、(2)書道技法講座 かな高野切第一種 伝紀貫之(二玄社)、(3)墨拭き(習字用ぞうきん;115円)を買った。

支払いのためレジに並んでいたら、家内から電話がかかる。早く来いという督促だ。「映画など観たくないのだが」と思うが、「ああ」と生返事。

最初観て面白くなければ、一人先に帰り、家で本を読もうか、と思った。以前も、トム・クルーズの映画で、最初の10分で、「私は帰る。SFは嫌いなんだ」といって出た。家内も付いて出た。その日は当然、気まずい。そんな犠牲を払わないと、本は読めない。家内にいろんな不義理をしながら、本を読んできた。

だから、映画を観るのは一年に2回程度だ。実は映画を観るのは好きだ。しかし映画などに耽溺していては本が読めない。女房の甘言に惑わされては駄目だ。読まねば、読まねば――。

面白い映画だった。終わりまで席を立つことはなかった。スラムドッグとはスラムとアンダードッグ(負け犬)を結合した言葉らしい。

主人公ジャマールの兄サリームの風貌が、まるでセサール・ソトとマルコス・ビジャサナをミックスしたようだ。ジャマールはアミール・カーンに似ていた。司会者は、岡田真澄とみのもんたを思い出させた。インドのムンバイのスラム街の凄さ。

神戸生まれで24歳までそこにいたから、スラムの存在は知っている。賀川豊彦の「死線を越えて」を想った。

そして、昔神戸ジムのトレーナーをしていた頃、私が担当していた選手が急に練習に来なくなったときのことを思い出した。同僚の板東と一緒にOというスラム街へ行った。OAというホープの家を訪ねると、怪訝な顔で見られた。OAは不在で、「また練習に来るようにいってください」と伝言して出た。

神戸にもあんなひどい貧民街があるのか、と初めて知った。翌日、OAがジムに来た。「あんな汚い所に来てもろて恥ずかしですわ」と言った。

OAは素晴らしい選手だった。均整がとれ、中学時代、体操の選手をしていただけあって運動神経が素晴らしかった。気が強かった。凄いパンチを持っていた。なぜチャンピオンになれないまま、ボクシングをやめたのだろう。

あんなにいい素質を持っていたのに、あともう少し我慢してボクシングをしていれば、この世界で金など十分稼げただろうに。ランディ・スイコやルイシト・エスピノサよりずっといい選手だったのに。

後日談がある。数年前、荒木慶大の東洋タイトル戦を組んで、大阪に行ったとき、初めて泉北ジムの会長に挨拶した。それまでマネジャーの大杉さんとしか話したことがなかった。

「井上会長、昔、興和ジムにいなかったですか」と訊くと、そうだ、という。「ああ、あの井上だ」と思った。40年も前の西日本の新人王のフェザー級決勝で、OAは井上にKOされた。あれでボクシングをやめた。井上は長身のストレートパンチャーでいい選手だった。OAが井上に勝っていれば、全日本に行けたのに――。新人王を乗り越えていれば――。

「いい映画だったわね」と家内がいう。
「ああ」と生返事。

もっとトレーナーとしてキャリアがあれば、OAを伸ばしてやれたのに。運命というのは皮肉だ。私が未熟な見習いトレーナーのようなときに、あんないい選手に出会うなんて――。

あいつは運をつかみ損ねたスラムドッグ、スラム街の負け犬だった。
(4−19−09)


ひょうたんから駒

ボクシング・ワールド誌にボクシング科学講座を連載しているが、添付する図はずっと自分で書いている。

息子はトヨタの車体のデザインの末端設計をする派遣エンジニアだ。正社員ではない。「クビになったら、リング・ジャパンで会報の発送でもやれよ」と冗談をいうが、車大好き人間が自動車の仕事をしているので結構楽しんでいるらしい。

息子が一昨年、正月に帰京した折、訊いた。「てこの原理のような物理のポンチ図を描いてみたい。パンチを強く打つコツを図で説明したいんだ」と。

「そんなの簡単だよ」と、EXCELのオートシェイプで私が手書きした図を描いた。「できる? 自分でやってみて」といわれ、カチンときた。これでも元はエンジニアだ。息子ほど速くはできなかったが、何とか図は描けた。

以後、ワールド誌の図を自ら描くようになった。慣れてきたので、いろんな図が描ける。最近苦労したのは、骨盤の高速回転を説明する図を描いたときだ。オートシェイプのフリーハンドで描いたが、最初うまくできなかった。凝り性だから、何度も描き直して何とか格好がついた(ちょっと左右不対称)。

私の科学講座は日常のちょっとした対象をヒントにするから、当分書き続けられるだけのテーマがある。

できるだけ分かりやすく書くことを心がけている。意識しているのは寺田寅彦だ。日本人のもの書きの中で寺田寅彦が一番好きだ。鴎外、漱石、加藤周一より私の中では上だ。タイムスリップして寺田寅彦のような先生に物理を習いたかったな。
(4−17−09)


志と自由

このまえ息子が名古屋、いや豊田市から帰京したときに言った。
父「何か元気が出るような言葉を色紙に書いてやろうか。不屈とか、努力とか、志とか・・・」
息子「いや、いいよ。俺、そんな趣味はないから」

父「私の字を見ると元気が出るぞ。まだ上手くはないが、力強くて男らしくて・・・」
息子「そこまで言うんだったら、『自由』かな。特に欲しいという訳じゃないんだよ」
父「そうか、自由か。色紙のレパートリーにないな。いつか練習して、そこそこの字が書けるようになったら送るよ」

親が親だから、息子はそれほど優秀な人間ではなかろう。ただ真面目に、他人に迷惑をかけずに生きてくれれば満足だ。

親がこれだけ書道に凝っているのに、息子は字が下手だ。上手くなろうという気もないらしい。一度、「みるみる字がうまくなる本」といったタイトルの書を送ったが、読んだのかどうか。

一度助言をした。
(1) 太目のもの(ボールペン、鉛筆など)で書く。
(2) 直線的に書く。
(3) 字画を大きめに書く。
それを守っていない。コチョコチョと書くから、ミミズがはったような字になる。

「最近、志という字をよく色紙に書くんだ」
「ああ、そう」

昔、この息子が小学生の頃、勉強を見ていた。覚えが悪いので、つい頭を叩いてしまった。そのあと、私から離れるようになり、娘が言った。息子は「お父さんのこと、大嫌いなんだよ」と。

私は親父からスパルタ教育を受け、毎日、会社から帰ると目の前で勉強を強いられ、出来が悪いと殴られた。柔道の練習も強制された。「ああ、親父と同じことをしている」と大いに反省した。勉強など出来なくてもいい。もっと伸び伸び少年時代を過ごすことの方が大事だ。それ以来、息子の勉強を見るのは一切やめた。勉強している息子を水泳、卓球、バッティングセンターに誘い出す。下らない駄洒落ばかりとばしていた。

もう少し知的感化を与えてもよかったかな、と反省するが、当時、私は帰宅すると息子の前でボクシングのビデオばかり見ていた。

「子供の頃、夕食のとき、血が出たボクサーのビデオを見せられるのは閉口した」と言われた。私は少年時代からボクシングを見ているから、ボクサーが血を流すのを見て平気だ。その点、無神経だった。

そうか、自由か。練習して、いつか遺産として色紙を贈ってやろう。その色紙を大田胃酸と一緒に送る。「これは『いさん』だ」と。バカバカしくて、色紙を捨ててしまうんじゃないかな。
(4−16−09)


加藤周一氏お別れの会

2月21日(土)午後、銀座の有楽町朝日ホールで故加藤周一氏お別れの会が開かれた。新聞で見て、幹事社の岩波書店に電話すると、600席あるが、300席は親族、招待者用で、あふれた場合、外のスクリーンで見ていただく、という。

土曜の朝の習字を早めに切り上げ、家内と一緒に車で出た。交通渋滞だ。途中で降り、私は地下鉄で銀座まで出た。35分前に着き、席に座れた。横に家内の席を取っておいたが、車が混んでいるのか、なかなか来ない。次々と席が埋まっていく。弔問客は老人が多い。多分、学者や知識人、ジャーナリストの人たちだろう。頑固そうな風貌の人が多い。

家内が着いたのが開会の5分前。ロビーでは席のない人たちがスクリーンを見ている、という。

岩波書店の山口社長が挨拶し、弔辞は大江健三郎、水村美苗、吉田秀和各氏が語り、鶴見俊輔氏は不参加でメッセージの代読。喪主挨拶は矢島翠さんで、さすが加藤周一(敬称略)の伴侶だけあって、しっかりした人だった。

私のようなボクシング評論家が直接知己もない文化、文芸評論家のお別れの会に出席する気になったのは、加藤周一に影響を受けたというより刺激を受けたからだろう。私は加藤周一の或る部分、すなわち論理明解なところが好きだった。

嫌いな部分もあった。彼はサラリーマンの経験に乏しく、高等遊民の生活が長かった。彼はよく役人、官僚を揶揄したが、彼らも国民を形づくる一部だろう。彼らにも生活、生計がある。その点に関し、加藤周一にはインテリ・エリート(選民)意識ゆえか嫌味があった。

そして加藤周一はペダンテテッィック(衒学的)に過ぎる面があった。だから一部の知識人には受け入れられたのだろうが、大衆にそのいわんとすることを伝えきれなかった。

「先生、なぜもっと一般に分かりやすく書かないのですか」と、私が知人、あるいは弟子なら、助言しただろう。加藤周一は多分、「厳密さを保ち、追究するためには、一般受けを捨てねばならない。畢竟、脱俗の道をたどらねばならないのだ」と言っただろう。そのため、小林秀雄、吉田健一、林達夫より一般の評価、あるいは親しみやすさは低かったのではないか。朝日新聞に24年間、「夕陽妄語」を書きながら、どれだけの人が理解できたのだろう、と疑問に思う。晩年になるほど、衒学癖は強くなっていった。

私は工学部機械科出身者だが、工学の中にFool Proofという金科玉条がある。「馬鹿にでも理解できるように分かりやすい」という意味だ。それは図面や取扱説明書に適用される鉄則である。加藤周一にはそれが欠落していたように思う。

終わって、外に出たとき、実に清々しい気分になった。時間を費やして、このお別れの会に来てよかった。いい弔辞を聴かせてもらった。「加藤周一はきっといい人だったのだろう」と家内に言った。100冊以上も彼の著書を読み、その著者が嫌な人間だったら、これまでの自分の読書が空しくなる。

私にとり、加藤周一は「読書案内のおじさん」だった。いろんな本を紹介してもらった。特に「論語」だ。加藤周一があれほど何度も「繰り返し読むに値する本だ」と強調しなければ、私はこれほど論語に傾倒しなかっただろう。旅に出るときは、必ずバッグの中に入れる。折に触れ、それを読み返す。論語、しかしそれだけではない(これは加藤周一の好んだ言葉らしい)。他の本、他の分野への目も開いてくれた。

私が加藤周一に感謝するのは、彼が優れた知性の国際的文化人だったためではない。加藤周一に対し個人的共感を持ったからだ。ときに加藤周一は、私が感じてはいるが、言葉にできない事柄について、明解に論理を展開してくれた。「先生、同感」と拍手したいことが多々あった。もちろん、「何を言っているんですか」と反発することもなくはなかったが。

いつもある事柄について、加藤周一と私とで見方、意見を比較していた。つねに気になる人だった。その加藤周一はもういない。

有楽町を家内が車を停めた駐車場まで歩く間、哀しみとともに頭を涼しい風が吹き抜けるような爽やかさを感じた。

そのあと五反田のワタナベジムへ直行し、女子の世界チャンピオン張喜燕(ツァンヒヤン)の公開練習に行った。加藤周一が「漢字・漢語・漢詩」で言った通りだ。中国人とは筆談でコミュニケーションがとれた。
(4−10−09)