私の視力は右1.0、左0.5だ。歳の割には目がよく見える。だが左右の視力差のため、右目を顔の中央にしてものを見ようとする傾向がある。その結果、やや顔を左に向けがちだ。長時間、本を読んだり、パソコンで仕事をしたりすると、左の首筋から肩につねに緊張を与えているため、肩こりを生ずる。
子供の頃から、右手で鞄を持ち、左手を自由にする習慣があるので、身体がやや左に傾いている。
私の身体的特徴をいうのでなく、このような微妙な偏心(中心からのかたより)は誰の身体にもあるのではないか、と推察する。
たとえば、シャドーボクシングをすると、私のバランスはやや左側へヘッドスリップした状態なので、
左フックー右ストレートー左フック
は打ちやすい。
ところが、右左右、左右左が逆の
右ストレートー左フックー右ストレート
は打ちにくい。
正確にいうと、打ちにくいのではなく、身体のバランスをやや右にシフトウェイトして中央にもどすと、右ストレートから出せる。ところが、この右にバランスを移すと、一動作余分になり、相手のガードがあいた瞬間、すぐ打ち込むことができない。無理にいまのやや左に傾いたバランスのまま出すと、最初の右ストレートが弱いか、速く打てない。
これは、私の固有の身体的バランスが原因だろう、と推察する。
昔、練習生に基本を教えていて、「こいつ不器用だな」と思うことがあった。たとえば、ワン・ツーから左フックは打てるのに、ワン・ツーから左アッパー(アゴ)が滑らかに打てない。どうもぎこちない。
右アッパー(ボディ)−左フック(顔面)と
その逆の、左フック(顔面)―右アッパー(ボディ)を
打たせてみると、一方は打てるのに、他方は極端に打ちにくがったりする。無理に打たせても、スパーリングや試合で使えるような、滑らかさ、速さがない。
柔道では自然本体といい、両手を下げ、そのまま立った姿勢を基本とする。不器用な練習生をこの自然本体で立たせ、左右の肩が水平かどうか見る。左右の視力に極端な差がないかどうか、聞く。不器用な原因が身体のバランスのせいである可能性があれば、鏡に向かいシャドーボクシングをさせ、「バランス、もう少し右」とつねに指示を与える。
左足に体重の6割、右足に4割とかいうセオリーがあるが、そんなバランスで戦えば、バッティングが多く、前に出るにはいいが、身体を起こされると滑らかに後退できないオンガードポジション(構え)になる。攻めてよし、守ってよし、前に出てよし、下がってもよし、左右どちらにでも瞬間的に動ける、と全方向へ動くためには、元のバランスが重要になる。
キャリアがつき、メインイベンター・クラスになると、シャドーボクシングはリングの中で行い、鏡に向かってはまったくしない選手がいる。それをトレーナーも強制しない。練習生のように鏡に対して真直ぐ前進、後退をさせてみると、メインイベンター・クラスにも長年の練習の癖でバランスのくずれが生じている場合があり得る。
そのバランスのくずれは、特定の方向のパンチに対してよけにくかったり、打たれ弱かったりする原因となる場合がある。
私はこのごろ後楽園ホールの最前列で、ボクサーの背中を見る。背骨の曲がりまでは分からないが、何となく左右いずれかに傾いている選手を見かける。そんな選手はパンチの戻りが悪かったり、打たれてバランスをくずしたりすることがある。
最後に、私の背骨矯正法は次の通りだ。
1. 両手を上で組み、背伸びする姿勢を1分間くらい保つ。
2. ベッドで体側を下にして、上体だけ起こして1分間くらい保つ(逆もする)。
3. 水泳をしているとき、平泳ぎの姿勢で、両手両足を真直ぐのばし、流線型を保つ。ひとかきして、またこの流線型を作る。
4. 車道と歩道を区分している白線の上を、できるだけ遠くの白線を見て、背骨をその白線と重ねるようにゆっくり歩く(ただし、車が来ない道で)。
私の場合は、肩こり防止と書道の縦線書きのためだが。
(2−26−08)
私の習字には欠陥がある。横線はいいとしても、縦線がまずい。どうも真直ぐ書けない。いつも一定方向に傾くなら、その分、補正すればいい。しかし、右へ傾く角度がまちまちだ。ここの縦線だけ上手くいっていれば清書として出せたのに、という失敗例がかなりある。
その原因は、体のバランスが悪いためではないか。この仮説のもとに、バランスの矯正をし始めた。いつも左足を右足の上におき、足を組んで仕事している。英語の筆記体を書くように、紙を左側に傾ける。その方が早く書けるという癖がついてしまった。それが2時間とか長くなるので、体全体をゆがめて机に座っていることになる。
この前、水泳のあと、スポーツマッサージを受け、背骨がやや左へ曲がっているといわれ、ストレッチングによる矯正方法を教えてもらった。そして、普段、仕事をする姿勢もできるだけ足を組まないよう、両足を机に対して直角に出すように心がけている。すべて書道の縦線を真直ぐ書くためだ。
バッグを右手だけでなく、左手で持ち替える。そして、車の運転を両手でする。これまで、いつも右手一本で運転していた。馴れだから、高速でも右手だけで運転し、左手は遊ばせていた。スポーツマッサージの先生に、「あなたは座るとき、左の尻だけで腰掛けていませんか」といわれ、運転の格好をしてみると、たしかにそうだ。左の尻で座り、体をやや左に傾ける癖がある。それ以来、両手で運転し、両尻で椅子に腰掛けるようにしている。すべて書道の縦線を真直ぐ書くためだ。
人間の体には個人的な重心の偏りがあるのではないか、と思う。たとえば、私のように左足の方に重心が傾いている人間は、もとから左へ重心が寄っているので、左手を引っ張られると転びやすい。左フックを打たれると、ブロックしても重心が大きく左へ傾き、たたらを踏むように左足を踏み出して体を支えねばならない。逆に右に傾きがちな選手もいる。ダッキングするとき、どうしても右へかがむ癖のあるタイプだ。これは(右下へのダッキングのあと次の防御動作を身につけないと)打ちおろしの右を打たれると、バランスをくずしやすい。
ストレートを受けたときは強いが、フックに対しては弱い。あるいは、逆にフックを受けたときは強いが、ストレートに対しては弱い。そんな体の癖を持った選手がいる。だから、探り針のパンチをいろいろ打ってみると、相手の反応が分かる。アッパーを打つと、相手が大きくのけぞる(アッパーに対するきちんとした防御を体得していないからだ)。そんな相手には、左アッパーで起こし右ストレート。あるいは、右アッパーのフェイントで起こし右ストレート(右ダブル)。こんなコンビネーションが有効になる。
この前、スポーツマッサージの先生に診てもらったら、背骨は毎日のストレッチングの効果か、かなり真直ぐになってきている、といわれた。グッド。それなのに、習字の方は相変わらずだ。原因は体のバランスでなく、単純に下手なだけかもしれない。そうなるともっと書き込まねばならないのだが、いま書道は趣味と位置づけ、その日のノルマを消化したときだけ習字をしていい、と自分を追い込んでいる。「頑張れ、これが終わったら、習字をしていいぞ」と、習字を自分に対する褒美とする。ドイツ語の辞書を引きつつやっとノルマのところまで終わり、墨を擦りだすのが夜の1時すぎということもある。なぜ朝、体の元気なうちに書かないのか。朝書くと、2時間でも3時間でも納得するまでやめられず、その日のあとのスケジュールにしわ寄せがくる。マッチメーカーが習字をしていて計量に遅れたでは格好が悪い。
そうあせるものではない。物事、何でもすぐ効果が出るというものでもあるまい。このまま体のバランスを矯正する方法(両手運転、ストレッチングなど)を継続し、習字を続けよう。そのうち、いつの日か縦線を真直ぐ書けるようになるかもしれない。
(2−22−08)
2月9日から11日の3連休、漢文の基礎の復習に没頭していた。以前、同じ本を3分の1ほど読んで、多忙を口実にそのまま放置していた。それは意志の弱さであり、動機の弱さでもあった。今回、一念発起し、ノートを取りながら最初から読みきった。
人生のこの時点で、漢文を復習できたことは大きい。今後とも中国の書を臨書する。ただ字形を真似るだけでは空しい。たとえば、王義之の蘭亭序や集王聖教序は生きている限り、何十回、何百回と書くだろう。意味が分かることで習字という行為が一段と高いものになるのではないか。
最近、準初段になった。これも徳村先生のおかげだ。この3年間、何度やめようと思ったか分からない。疲れて帰宅し、もう体にエネルギーは残っていない。くたくただ。ところが、先生からの添削の封筒が届いている。それを見ると、直されたところを書いてみよう、という意欲がわく。朱の字で、励ましの言葉が書いてある。私の拙い字を褒めてある。「褒める」ということが、学ぶ人間をいかに力づけるか、教えられた。
ボクサーも褒めてやらねばいけない。どこかいい所を見出し、褒める。それがボクサーのやる気を引き出す。怒鳴ってばかりいて褒めることができない指導者(トレーナー)は、いい教師(コーチ)とはいえないのではないか。
石碑がある。漢文で書いてある。それを目で追い、意味をさとる。それが出来なくてはいけない。英語は欧米人なみに読めるが、漢文はまったく読めないでは恥ずかしい。そう思った。習字をしているから、そんな恥の気持ちが高まったのだろう。
子曰「(中略)知之為知之、不知為不知。是知也」
子曰く、「之を知るを之を知ると為し、知らざるを知らずと為せ。是れ知るなり」(「論語」為政第二)
わかることはわかる、とし、わからないことはわからない、とする。この境界を知ることがわかる、ということだ。
ボクシングを分かったつもりかもしれないが、どれだけ知っているのか。まだもっと知るべきことが残っているのではないのか。読まねばならぬ本があるのではないのか。人に教えを乞い、聴かねばならぬことがあるのではないか。見直さねばならぬテープがあるのではないか。疑ってみるべき通説、常識があるのではないか。
こんな自戒を促してくれただけでも漢文の効果がある。
(2−21−08)
多分、家内はなぜ私がこれほどむきになって毎日毎日、運動するのか分かっていないのだろう。「この人は体を動かすのが好きなのだ」程度の認識だろう。朝起きると、すぐ走りにいくか、ジムかプールへ行く。もう60歳なのに。
私が28歳で東京に転勤になり、32歳のとき米倉会長に頼まれ、中島成雄選手の臨時トレーナーになった頃だ。私がヨネクラジムでトレーナーをしたのは1年程度だったが、いろんな経験をした。故松本トレーナーはよそ者のトレーナーである私にいつも親切だった。いまも感謝している。
あるとき、米倉会長が言った、本人は忘れているかもしれないが。あれは中島が怪我をしたときだ。「ジョーさん、医者が全治2週間といったら、ボクサーは1週間で治る。並みの人間じゃないんだから。毎朝走り、毎晩ジムワークをしているボクサーは違うんだ。けものみたいな体になっているんだ」と。
会長が言うとおり、中島は1週間で治った。他の選手の怪我も、医者がいうより(必ずしも半分の期間ではなかったが)早く治った。それを何度もこの目で見た。それ以来、私は自分自身を「けものの体」に近づけてみよう、と思った。毎日休まず、運動する。それで体質(の強さ)が変わるはずだ。ボクサーは日曜、休むが、私は休まない。日曜は休日なので、時間が許すときは、ウィークデイより長く泳ぐか、走る。
確かにそうだ。1日に1回、脈拍を150くらいまであげ、ハアハアいう状態にすると、血行が盛んになり、血液が血管を洗う。血液の循環がよくなる。病気に対する抵抗力を体につける。それは「防衛体力」だろう。
あれが32歳の頃だから、あれ以来もう28年、1日も運動を休んでいない。私は病気で寝込んだことがない。いつも心身いいコンディションで生きているつもりだ(ときに寝不足で疲れた表情をしていることがあるが、それは前の日の本の読みすぎ)。それは運動のせいではないか、と思う(ただし、この因果関係はもっとデータを集める必要がある。毎日、規則的に運動している人でも病気になった例も聞かないではない。ただし、私自身の実験においては、運動は健康によい)。
24歳で三菱重工の広島造船所に入り、28歳で東京に転勤になるまで、毎日、走っていた。規則的に泳ぎに行った。暇さえあれば、腕立て伏せ、腹筋、逆立ち。スポーツ科学の本を読んでは、自分の体で試していた。18歳から24歳までの学生時代は、毎日、夜は神戸ジムで選手と一緒に汗を流していた。しかし、人間の体、トレーニングの効果(ウェイトトレーニングを含む)について分からないことが数多くあった(たとえば、ウェイト・トレーニングはボクサーにとって効果があるのか、体の柔軟性を失わずパワーをつけるウェイト・トレーニングとは、という問題)。だから神戸を離れてからは、自分の体を実験台にいろんなトレーニングを試してみた。
当時、毎朝走っていたから、寮のおばさんから、「あんた、駅伝に出るんですか」といわれた。朝走り、昼休み走り、夜寝る前にも走った。10km+2km+5km=17kmは一時期、ほぼ毎日、走っていたことになる。しかし、必ずしも完璧に毎日ではなかった。広島造船所というのは構内が広く、一周2kmもあった。だから、昼休みのサイレンが鳴ると、すぐ一周走る。下っ端エンジニアだったから、足に鉄塊が落ちてきてもケガをしないための作業靴(これが走ると結構重く感じる)を履いてだ。一汗かいてから、給食を食べていた。もう一度あの広い造船所構内を走ってみたいが、退社しているから駄目だろう。
中島のトレーナーをしているとき、出身ジムの神戸拳から千里馬が練習に上京してきた。当時まだサラリーマンだったから、社宅に招いた。武蔵境の浄水場の周りを走るのを、千里馬に自転車で伴走させたことがある。私の走り方は、途中でピッチをあげるザトペック走法だ。千里馬はついて来られない。30分くらい走り終わって、千里馬が言った、「よう走りますね」と。「千里馬、ボクシングはスタミナだ。どんなにテクニックがあっても、スタミナがなければ、後半失速して負ける。ボクシングの基礎はスタミナ。スタミナを作るのはランニング」と(最近、千里馬会長にその話をすると、「あれは自転車が小さくてこぎにくく追いつけなかった」そうだ)。私が速すぎて追いつけないわけではなかったのか。
故KプロモーターとN選手と一緒に韓国へ行った。一緒に同じ水を飲んだ。2人は下痢をした。私は何ともなかった。(こんな経験は何度もあり、女房は私の胃腸の強さを、「腐ったものでも、あなたなら消化できる」といっていた)。
あるとき、寝不足の翌日、家内と寿司屋へ行った。鯖を食べた。その夜、生まれて初めて蕁麻疹(じんましん)が出た。私は何を食べてもあたらないのだ、と信じていた。体の疲労が青ものの魚に負けたのだろう。翌日、自分の体質の強さを確かめたくて、「もう一度、あの寿司屋へ行こう」と家内を誘い、鯖ばかり食べた。その夜、何ともなかった。ただし、昨日あたった寿司をまた食べに行ったので、家内は私を変人あつかいした。「頭がおかしいんじゃない」といわれた。違う、毎日運動を継続することの効果を確かめたかっただけだ。
あるとき、北島康介の水泳をテレビで映していた。私は水泳が好きだから、それを見てから泳ぎに行く、と家内は思ったらしい。私はそれを見ずにプールへ出かけた。「北島の水泳を見るより、自分で泳ぐ方が体にいい。スポーツとは自分で汗を流すものだ」。マラソンを見たからといって自分が元気になるものじゃない。自分で走る方がいい。こんな分かりきったことをいうから、家内にへそ曲がりといわれる。(北島選手の栄養管理をしていた女性は、料理研究家の家内の友人で、だから家内はいつも北島を応援している)。
現代生活では、人は歩く、走るのを忘れている。人間は本来、もっと体力があるはずだ。昔の人は山を越えて、通学、通勤していた。ひと駅、ふた駅くらい、平気で歩いた(現代人はそれができない)。だから、丈夫だった。現代文化は人間の体力を退化させる。エレベーター、エスカレーター、モータリゼーション(車)。すべてが便利で能率的な社会は人間の体をなまらせる。運動をせず、食いすぎ、飲みすぎる。病気にならない方がおかしい。
けものの体を維持するためには、自発的飢餓、自発的強制的運動を自己に課さねばならない。それも毎日だ。1日も休まずにだ。けものが休むか。
だから、走る。泳ぐ。ジムでウェイトをあげる。かといって、体を鍛えることで生計を得ている運動選手ではない。私自身は並みのアスリートだが、時間が許すかぎりのメニューで、毎日、続ける。自分で自分をおどかす。「今日、運動しないと、明日、病気になるぞ。病気になると、みんなに迷惑をかけることになるぞ」。そう自分を威嚇すると、雪の日にでもプールへ行ける。
これは、家内のために書いた。読んでほしい、と思うが、家内は忙しいといって、この頃、この「ひとりごと」を読まないようだ。多分、私のことを運動バカくらいに思っているのだろう。
<自分自身との自問自答>
1. 「たかが1日1時間程度の運動を約30年継続しているからといって、それで“けものの体”に近づいたといえるのか? 」
「やらないより、やる方がいい。もっと1日の運動時間を増やすべきかもしれないが、マッチメーカー兼ライターの私はそれ以上、運動に時間がとれない。だから、できるだけ車を使わず、歩くように心がけている。それと、日常生活において、できるだけキビキビ動いて運動量を増やすようにしている」
2. 「ここまで毎日、運動を続けると、逆に運動をしない日を作ると、体調が悪くなるのではないか? 」
「それは精神的な後悔であり、運動をしない日を作っても、すぐには病気にならないだろう。ただし、急に運動量を減らすと、体調不良を起こす危険性はある」
3. 「この毎日1日も休まない精神を、もっと他の対象(書道、英語以外の語学習得)にも適用すべきではないのか?」
「その通りだ。運動は1日も休まず続けるのに、書道や勉強は怠ける日がある。それは自分を甘やかす精神的な弱さだ。反省せねばならない」
4.「歳をとるにつれ、ペースダウンしないと、いずれジムやプールで倒れることになるぞ。ジョー小泉、ランニングマシーンで心臓発作を起こし死亡。あいつやっぱりバカだったな、ってことになるぞ」
「自分のその日のコンディションを考え、運動量、運動時間に注意する」
(2−17−08)
昔「私バカよね」という歌があったが、これぞ私の与太郎ばりの愚かさを示す事件であった。
WOWOWの解説のためスタジオへ入る直前、缶コーヒーを自動販売機で買う。普段、甘いものはあまり摂らないが、事務所で夜遅くまで仕事をしていると、頭がぼけてくることがある。そのとき、コーヒーに珍しく砂糖を入れて飲んでみた。急に頭に生気がよみがえった。「砂糖は頭の栄養です」というのは本当なのだな、とそのとき思った。
だから、缶コーヒーを飲みながら、2時間の解説をする。私には、缶コーヒーを開ける前、それを首筋に当て首の凝(こ)りを和らげようとする習慣がある。
スタジオ内で台本を読みながら、缶コーヒーを首に当てた。胸のあたりが熱い。それをもう開けていたことを忘れていた。「アチ、アチ」と飛び上がった。まるで東海林さだおのタンマくんだ。
カメラでみんなが見ていた。確か、その日は何かスーパーファイトで記者諸氏もWOWOWの食堂に集まっていた。「ジョーさん、何をやってんだか」と全員に見られてしまった。まるで与太郎。
ワイシャツが缶コーヒー漬けになり、まだ熱い。「ジョーさん、脱いだ方がいいですよ」といわれた。幸い、背広には被害がなく、ワイシャツだけがコーヒー色に染まっていた。
結局、スタッフの人が近くのコンビニで応急のワイシャツを買ってきてくれて、それに着替えて本番を済ませた。帰宅して家内にその事件を話すと、「何やってんの」と怒られた。私は集中すると、こんなヘマをしでかすことがある。
事後談がある。私はこの事件以来、缶コーヒーを首に当てるのをやめた。ところが、高柳アナウンサーが「気持ちいいですね」とかいって、最近これに凝りだした。
首筋に温風を当てると、血行をよくし、凝りがとれる。ボクシングジムにはドライヤーを置いてある。シャワーを浴びたボクサーが髪の毛を乾かすためだ。ドライヤーを、疲労を感じる場所に当てる。できるだけ強い温風を瞬間的に当てる。お灸の効果だ。それだけで血行がよくなり、凝りが和らぐ。トレーナー諸兄、どうぞお試しください。
缶コーヒーを見ると、あの事件を思い出し、恥ずかしくなる。
(2−8−08)
一昨年のクリスマス・イブに引越しをした。我が家のあるブロックのちょうど裏に剣道場がある。日曜の朝、少年剣士が「エーイ、ヤー」と元気のいい声を出している。朝の散歩のおり、それが聞こえる。少年用の剣道場だ、と思っていた。剣道をやってみたかったな。他の格闘競技はかじったが、剣道だけはしたことがない。
あるとき、車でその剣道場の前を通った。掃除の後らしく、剣道着を来た人たちが集っていた。中に大人もいる。外国人の剣士もいた。成人も稽古しているのか。そのとき私の歴史が変わった。習いに行こう。
私は還暦をすぎたら、合気道を習いに行こう、と思っていた。護身術として、60歳、70歳、80歳になっても、たとえ体格差があっても、相手の力を利用して身を護る。それに非常に興味を持っている。しかし、合気道より剣道の方が先だ。
20代の頃、新幹線やJRの中で、暴漢をいさめ係員に突き出したことが何度かある。身を護る術(すべ)を知っていると、胆力がつくから何か格闘技を習え、と息子にすすめたが、結局、彼は何も習わなかった。30代に入り、テレビ東京で解説をするようになってから、自分が公人だ、と思い、武勇伝は原則としてやめた。しかし、自分、妻、家族にもしものことがあったとき、それを護れなくて何のために体を鍛えているのか、という思いはある。潜在能力としての武力(護身力)は必要だ、と思う。
正直いって、60歳になってまだこれほど自分が元気だとは思わなかった。毎日、規則的に運動しているからだろう。40代の頃と比べてそれほど体力は落ちていない気がする。ただし、問題は、疲労が残ることだ。午前中、ジムで激しく動きすぎて一日中、グッタリということがある。最近、ジムのラニングマシーンで走ることに凝っている。運動後、あまり疲労を残さない方法を見つけた。それは正規分布、あるいは富士山のすそ野のような形で、運動の強度をゆっくり上げ、頂点を過ぎてから長い時間をかけてクーリングダウンすることだ。そしてマシーンとマシーンの間に休憩をとること。
先週の日曜、この方法で休み休みトレーニングしていたら、2時間半もかかった。朝、水とジュースだけ飲み、空腹状態で2時間半動くと、かなり体脂肪が燃える。しかも、運動後、疲労を感じず、午後は机に向かって予定通り、勉強できた。
問題はいつから剣道を始めるかだ。3月までは走りに走り、体力をつける。水泳は同じペースで長く運動を持続することはできても、疲れると自分で勝手にペースダウンをするから、私の場合、真の体力はつかない。マシーンで、自分の脈拍と速度を見ながら、運動のペースを自分できれいな正規分布を描くように制御する。調子の悪い日は低い山、よい日は高い山を描いて走る。
剣道を始めると、若者たちにボコボコに打ち込まれるかもしれない。それでもいい。息が切れないように事前に体力だけはつけておかないと格好が悪い。だから、今日も運動。
(1−31−08)
昨年読んだ本の中で印象に残るものを挙げてみたい。順不同である。
「ピンポンさん」城島充(講談社)
これは卓球の荻村伊智朗伝で、ベビー・ゴステロの伝記を書いた城島氏の労作。大成する人間はここまで努力するのか、自分を限界まで追い込めるのか。これを読見始めたのは、マニラのランディ・スイコー鮫島幸治戦の計量直後だったが、本を措くことが出来ず、夕食を遅らせ読みきった。荻村はわれわれ団塊の世代のヒーローだが、これほど強烈な個性の持ち主とは知らなかった。自分を律するために吉川英治「宮本武蔵」を読むスポーツマンがいるが、いかんせん長すぎる。この「ピンポンさん」は若いボクサーに一読を薦めるに値する。私自身、時間があれば、再読したい。
「HANDS OF STONE」Christian Giudice
最初の4分の3はヒーロー礼賛で、途中でやめようか、と思った。ところが、最後にすごい実話が現れる。マネジャーのカルロス・エレタの逮捕、デュランとの確執、デュランの現在がそれだ。エレタは、成功したビジネスマン、運動選手、作曲家でもあったが、数奇な運命をたどる。デュランと訣別したあとのエレタ、それを知りえただけでも、この本を読む価値があった。
「INSIDE THE ROPES」Arthur Mercante
名レフェリー、アーサー・マーカンテの自伝だ。伝記には2種ある。BiographyとAutobiographyだ。前者は伝記、後者は自分自身で書いた自伝だ(この本は、マーカンテが喋り、Phil Guarnieriがまとめたものだが、自伝に属す)。レフェリーが自伝を書くと、ミスが許されない仕事だから、自らミスを披瀝するわけがない。結局、自慢話ばかりのサンプルのような本で、読んでいて逆におかしかった。
「日本文化における時間と空間」加藤周一(岩波書店)
一時期、加藤周一の書くこと、興味を抱くことが、理解できず、興味を覚えなかったので、しばらく読まなかった。朝日の「夕陽妄語」もペダンティックでついていけい。最近、加藤周一のあまたある本を読み返している。どの本も論理のつながりが緊密で、加藤周一節が楽しめる。この人は「スポーツはからだによくない」という。私は適度な運動は、頭脳活動を促進させる、と思う。政治的な立場も、加藤周一とは大いに違う。私は愛国者だから。今年89歳か。これだけ頭がシャープだと年をとってもぼけないのだろうか。
「老いてゆくアジア」大泉啓一郎(中公新書)
アジア全体が高齢化社会になり、各国が社会保障制度の見直しを迫られる(日本だけの問題ではない)。東洋太平洋圏の選手を組むことが多い私は、アジア経済の将来を憂う。同じ国際マッチメーキングの仕事をするにしても、この本が示唆する現実および将来を知って仕事をするか否かで、自分の立場が変わってくる。
「親米と反米」吉見俊哉(岩波新書)
戦後、アメリカ文化が奔流のように入り込んだ状況が思い出された。
「憲法で読むアメリカ史」阿川尚之(PHP新書)
アメリカ史は結構読んだが、この本は法改正の観点からアメリカの重要な事件を回顧する。結局、ルールは人間が作り、そして変えるもので絶対的な存在ではない、と感じた。
「江戸三00年、普通の武士はこう生きた」八幡、臼井共著(ベスト新書)
明治維新が起こらなければ、私は広島浅野藩の中堅武士だっただろう。「武芸四門」すなわち、刀、弓、馬、槍に凝り、主君に忠義を誓い、書道を趣味とする律儀な侍――それが私の姿だろう。尊皇攘夷の流れの中で、自分はどう生きただろうか。私は革命に組するタイプの人間ではない。きっと規則は規則と表向き体制順応派の仮面をかぶり、独学で蘭学をきわめていったのでは・・・。
今年はときどき本の話をこの「ひとりごと」に書いてみたい。いい本に出会ったら、他の人に知らせるのも悪くはない。
(1−26−08)
大竹重幸トレーナー兼マネジャーに今年のエディ・タウンゼント賞が授与された。私も選考委員のひとりだが、佐藤修、坂田健史、両チャンピオンを育て上げた実績は特筆すべきものだ。25日、リング上で、両チャンピオンから「ありがとうございます」と感謝されたシーンは感動的だった。
試合終了後、速報メールを送り、控室に下り、川島会長と塩谷選手の写真を撮らせてもらった。この写真はFIGHTNEWSに掲載されている。殿堂入りはジャーナリストとしてなので、私の中のリポーター(兼カメラマン)の部分が蘇生した。今後、私の海外へのリポートにはできるだけ写真を添える。
ホールを出て、大竹トレーナーの祝賀会に顔を出した。ちょうど集合写真を撮り終わったあとに入ったので、また全員が並び撮影。エディさんの奥さんに1年ぶりに再会し、お元気そうなのを見て安心。たまには中野の「ドンピン」を訪れ、奥さんの顔を見にいきたいのだが、いつも時間に追われ中野で途中下車できない。それとできるだけ酒を飲まないようにしているし・・・。
楽しかったな。試合後、後楽園ホール周辺で仲間と一緒に一杯やりながら、その日の試合について語り合えば楽しいだろう。しかし、私は速報メールを打ったら一目散に帰宅し、手早く夕食を済ませると、英文リポートを書いて世界各国に送信する。それが習慣だ。そのあと習字をして、英語で読書をしてから寝る。午前は辞書を引き精読、夜は速読。それがノルマだ。
水道橋から電車に乗ったのが11時半。帰宅が12時半。30分で夕食が済ませられるよう家内に頼んでいたので、1時すぎから机に向かい、今日の試合の英文リポートを書き出した。新井田の世界戦発表リポートは明日にする。
今週、仕事も目一杯し、朝のトレーニング、自宅での勉強もノルマを果たす、自分としては理想的な生活をしてみた。毎日、寝るのが3時ごろになり、朝は朝で早く目が覚める。1週間の疲労(筋肉疲労を含む)が蓄積し、このパターンでは1日24時間では足りない、と分かった。来週から元通り、朝型に戻そう。夜は早めに寝る。一度、5時か6時に起きて1日を始める生活パターンを実験してみよう。
(1−25−08)
トレーナー諸兄、「ボクシング・ワールド」2月号、「東洋から世界へ」の「つま先から踏み込むだけがステップインの方法ではない」を読みましたか?
ためしに、右ストレート(腹)を、左足をつま先から入った場合とかかとから入った場合、おのおの打ってみると分かります。かかとから入った方が、ヒザが折れ、腰を落とせ、より強い右ストレート(腹)を打てます。
これが最も分かりやすい実例です。
(1−24−08)
昨年、この「ひとりごと」をほとんど書かなかった。書けなかったのだ。芥川龍之介ではないが、将来に対する漠然たる不安があった。それは、プロボクシング、自分自身、そして我が社リング・ジャパンに対する不安であった。
あと10年もすれば、少子化の波が襲ってくる。そのとき、プロボクサー志望者は激減する。選手あってのボクシングだ。選手がいなくてプロボクシングはどうなるのか。その波が押し寄せる前にボクシング界の構造を作り変える必要はないのか。すなわち、若者にとりもっと魅力のあるプロスポーツにしておかないと、プロボクサー志望者は減るだろう。世界チャンピオン以外の選手のファイトマネーが他のプロスポーツに比べて安すぎる。野望に燃え、一攫千金を目指す若者たちを将来、どうして引きつけることができるのか。
そんな衰退が予想されるプロボクシングに依存して生きている自分はどうか。仕事としてマッチメーカーとジャーナリストは両立しない。マッチメーカーであるために、書きたくても書けない部分がある。たとえば、自分がマッチメーキングを依頼されたカード自体を批判できない。いかに不甲斐ない試合をしても、その選手がマッチメーキングを依頼してきたジムに所属していれば、彼を非難する記事は書けない。体制(クラブ制度)を論ずることも控えねばならない。そんな制限下で、細々と海外への英文リポート、専門誌への寄稿を続けてきた。
自分の会社リング・ジャパンについても不安がある。私が元気な間はいいとしても、私が病気にでもなったら、社員はどうする。結局、個人会社だから私が倒れると、会社も倒れる。社員諸君は困るだろう。
元気だといっても、私も還暦だ。あと何年いまのペース仕事ができるか、分からない。ボクシングとは別の分野で仕事をしてみたい気がある。ボクシング界で誰かがマッチメーカーをしないといけないのだが、私自身この仕事が嫌になってきた。責任は重く、仕事は雑用があまりにも多く、報酬は薄い。割りに合わない。
あと何年元気に活動できるのだろう。せいぜい10年、よくて20年だ。こんな激務に携わっていると、消耗してしまう。自分自身、残る人生で何をしたいのか。
死ぬまでに読んでおくべき本がある。学んでおくべきことがある。見ておきたいものがある。書き残したいことがある。それには時間が要る。しかし、マッチメーカーをしている限り、その時間は足りない。あれもこれもできないとしたら、対象を絞らねばならない。ところが、あと何年生きられるか推定できない以上、10年計画、20年計画が立てられない。
いずれ、マッチメーカー、テレビ解説者をやめるべきときが来るだろう。ペンとパソコンがあれば、ジャーナリストは続けられるが、そのとき自分はどうなっているのだろう。連日よぼよぼと試合会場へ足を運ぶ、貧しきフリーの老ボクシング・ライターか。
一体、自分は何をしたいのか。長期計画を立て、地道にそれを消化し、邁進するのが私の方法だ。目的に対する真面目さ、勤勉さ、努力だけが私の取り得だ。しかし、長期計画が立たない。だから、考え込んでいた。
別にノイローゼになったわけではない。いまのもろもろの仕事は、目先の短期目標を達成していけば、何とか回転する。ボクシング界で私のようにこのプロスポーツの将来の心配をする人はあまりいないのではないか。
物事、良い場合と悪い場合を考えておかねばならない。
<良い場合>
スター選手を輩出し続け、プロスポーツとして繁栄とまではいかなくても現状を維持する。
<悪い場合>
いまジムの数が多すぎるのかもしれない。経営難のため、かなりの数のジムが潰れる。興行数も減る。当然、世界戦も激減する。海外に世界タイトルを獲りにいくにも、海外で勝つ試練を経ていないから、勝つためのノウハウがない。世界王者不在のときが長く続く。プロスポーツとして衰退する。関連業種もそれにともない衰微する。ジャーナリズムも勢いを失う。
私自身、ビジョン(理想像)が描けない。どういう存在になりたいのか。ビジョンというのは社会の将来像をキャンバスにして描く油絵のようなものだ。それがまったく描けなかった。
そこに名誉の殿堂入りの知らせがきた。嬉しくないといえば嘘になるが、非常に複雑な気持ちだ。これでボクシングを離れられなくなるな。それが実感だ。
殿堂入り決定から約1ヵ月が過ぎた。それは化学実験の触媒のように、いろんな変化を生み出した。化学変化は急速に進み、自分自身のビジョンが現れてきた。
ここでも良い場合と悪い場合の2つのビジョンがある。
<良い場合>
あと10年はマッチメーカーとして頑張る。もちろん、ジャーナリストとしては筆を磨き続け、東洋の論客となるべく努力する。10年後、私はマッチメーカーを引退するが、リング・ジャパンは残す。社員諸君だけでマッチメーキングをする。私はリング・ジャパンの会長か、相談役として、困ったときは補佐をするが、もう会社には出ない。残る人生、家でひたすら勉強する。書を書く。絵を描く。少しは著述をするかもしれないが、それは生活のためではない。後世に何かを書き残すためだ。昔の本を繰り返し読み考えるのが日課だから、もうそれほど金は必要ではなかろう。質素な生活をすれば、それだけ生活のために意にそまぬ仕事をする必要もなかろう。外に出るのは、試合会場に行き、プールかジムで体を鍛え、公園を散歩するだけだ。あとはすべて自分の時間だ。それを何に使おうと、何語の本を読もうと、それは自分の自由だ。
これを良い場合とすると、悪い場合も考えておかねばならない。
<悪い場合>
プロボクシングの衰退とともに、リング・ジャパンから1人抜け、2人抜け、最後は、最初の頃のように私だけになる。細々と1人で数少ないマッチメーキングの注文を受け、黙々と仕事をする。空港へも自分で迎えに行く。セコンドも自分でする。余暇については、良い場合と同じだ。ひたすら独学をする。その点は同じだ。
私はこれまでせっかちで癇癪もちだった。だから仕事が速く、正確だった。つねに多忙だから、他人への対応がぞんざいになる面があった。すまなかった、と思う。徐々に性格を変える。「好々爺」になる。郡司信夫先生のような穏やかな老人になりたい。誰にでも親切で、礼儀正しい老人になろう。
私は別に意地の悪い人間ではないが、人に好き嫌いがあった。自分に厳しくなろうとするあまり、他人にも厳しい面があった。そしていつも時間に飢えていていらいらし、物事を手早く片付けようとしすぎていた(帰宅して辞書を引きながら本を読むためだ)。60歳にして生まれ変わる。それまでの自分は卒業する。今後、自分をさらに厳しく律する(もう残る時間は限られている)。しかし、他人、若い世代を親切に助け、アドバイスを求められれば応えよう。いずれ後進に道を譲り、あとは泰然自若として生きていけばいい。
「好々爺」か。なかなかいいな。そしてボクシング界では、「まあまあ小父さん」になる。いさかいがあっても、私が「まあまあ」と間に入ると話がまとまるような潤滑剤になる。駄洒落をとばしながら、両者の間に立って調停し、なんとか建設的な方向にまとめあげる。必要とされるうちは、そんな調停役が私の仕事になる。
70歳で天才少年と出会い、一介のトレーナーに戻るのもいいな。そして怪物的ハードパンチャー(ワン・パンチ・フィニシャー)を作る。まあ、その出会いが起こるか否かは運だ。最後の10年を外国で生きる夢を持っていたが、書道を生涯の趣味とし、いずれ水墨画も描くから、多分、隠居後も日本に留まるだろう。
ジョー小泉老が怒ったところを見たことがない。昔、あんなに短気だったのに・・・。そういわれるような老人になりたいものだ。そして静かに死んでいく。
いいな、ビジョンができた。「好々爺」ジョー小泉。
(1−21−08)
マッチメーカーとジャーナリストは両立しがたいことがある。ウェブサイトFIGHTNEWSに日本の試合結果や展望などを送っているが、きついのは世界戦レポートだ。
まず会場内から、試合直後、結果のみの短いレポートを米国本部(カリフォルニアだと思う)に送る。それから外国人選手やオフィシャル(レフェリー、ジャッジ、立会人)をホテルに送り、オフィシャルと夕食をともにし、帰宅してから長い詳細レポートを書く。
ムニョス、川嶋戦は横浜で行われたので、移動に時間がかかった。オフィシャルとのディナーのあと、別のホテルに泊まるムニョスのラモス・トレーナーに会いに行った。帰宅し、詳細レポートを書き始めたのは夜1時だった。
翌日、朝6時半に起き、WOWOWエキサイトマッチの音入れがある。早く寝なければいけない。いつもは1時間以内で書き終えるのだが、疲れのためか書くリズムがよくない。2時すぎ、睡魔に襲われだした。
書き続けようとするが、本当に眠い。オフィシャルとのディナーでワインを飲まなければよかった。あの1杯のワインを後悔してどうなる。一度横になり、疲れをとるか。いや、それをすると寝込んでしまう。書き終えねばならない。世界戦レポートは生ものだ。欧米が朝になる前に送り終えておかねばならない。
お茶でも飲めば眠気がさめるかもしれない。だが、家内はもう寝ている。自分で下におりて茶を入れるのは億劫だ。だが、キーボードを叩く力がない。
椅子から立ち、コーナーにもどったボクサーのように深呼吸をし、さらに体操をした。それでちょっと目が覚めた。青息吐息でゴールするマラソン・ランナーのように、やっとレポートを書き終え、それを送った。それから、ローマン・ゴンサレス、松本戦を別レポートにした。これもきつかった。
ベッドに入ったのは3時半。もうヨレヨレだった。ところが疲労のためか熟睡し、朝6時半に目覚まし時計で起きたとき、意外にも頭も体も調子がよかった。
パソコンを起動し、まずメールをチェックした。九州のドクター山田から2:52にFIGHTNEWSのリポートでマルティネス・ジャッジの115−113のスコアが抜けているという指摘があった。大慌てで、このスコアをFIGHTNEWSに送った。そしてWBA本部をはじめ世界中に訂正メールを出した。
恥ずかしい。ファイト・レポートに採点を書き忘れるとは。なぜもっと注意深く読み返さなかったのか。眠かったというのは言い訳にならない。駄目だな。大いに反省。
(1−17−08)
1月12日、土曜、世界戦の合間、スポーツセンターへウェイト・トレーニングに行った。体脂肪を測ろうと、ヘルスメーターに乗っていたら、インストラクターが声をかけてくれた。
「5分ほど時間があるなら、コンピューターで正確な体脂肪を測れます」といった。「おねがいします」と裸足のまま、指示された別の体脂肪測定装置に乗った。足で乗るだけでなく、手で銀色のメタルを握るようにいわれた。
結果はこうだった。
体脂肪率 10.9%
体重 61.5kg
筋肉量 51.7kg
体脂肪量 6.7kg
BM1 22.0(適正値 21.8)
ウエスト身長比 0.49
ウェストヒップ比 0.85(適正値0.85−0.90)
基礎代謝量 1342.4
一日必要カロリー 2,013.6
細胞外液比 33.2(適正値 30−35%)
<総合評価>
あなたの適正体重は61.5kg(そのまま)です。
0.0kg体重調整しましょう。
理想体型になるために、筋肉量は0.0kg、体脂肪率は0.0kg 調節を目標にしましょう。
バランス
筋肉が多い方です。
適度な運動で現在の筋肉量を維持しましょう。
これがコンピューターの測定結果だった。
私は信じる。I believe。知力は体力に依存する。
もし60歳の全日本国民で体力測定をすれば、私はかなりいいところに行くのではないか、と。私は1日1時間、40年間、ほぼ1日も休まず毎日トレーニングをしてきた。だから、人一倍、元気だ。
毎日、労働8時間、睡眠8時間、として8時間は余暇がある、とする。私の場合、1日12時間は仕事か勉強をしているから、残りは4、5時間だ。その貴重な時間をさいて、毎日トレーニングをしてきた。運動は読書、書道より優先する。
そのコンピューターの「体組成測定結果」を持ち帰ったとき、家内がいった。それだけ結果がいいのは、私が適正な食事を提供しているからだ、という。そうかもしれない。
普段、体脂肪計ではかっていると、13%程度だった。今回の結果を見て、1週間のトレーニング・メニューを変えてみたい。
いつもは
水泳(30分)
速歩(3分速歩、1分ゆっくり歩き)1時間以上
水泳(30分)
速歩(3分速歩、1分ゆっくり歩き)1時間以上
水泳(30分)
速歩(3分速歩、1分ゆっくり歩き)1時間以上
水泳(30分)
速歩(3分速歩、1分ゆっくり歩き)1時間以上
ウェイトトレーニング
が1週間のプログラムだった。
今年から、水泳とウエィト・トレーニングを入れ替える。1週間に3回はウェイト・トレーニングにし、週1回水泳にする。
いまウェスト75cm、胸囲95cmだが、これをウェスト75cm以下、胸囲100cmと、もっと逆三角形にしてみたい。どんな器具でトレーニングすればいいか、インストラクターに教えてもらった。
あと10年、毎日(正確には隔日)トレーニングして、70歳になっても、颯爽と速歩し続けられればいいな、と思う。
いつか、ジェフ・フェネックが私の体を見て驚いた。豪州の連中は、いまも私を「ジャパニーズ・ブルース・リー」と呼ぶ。
(1−16−08)
シドレンコ、マルドロット一行を出迎えるため、1月3日の朝3時半に起床して、4時半に家を出て、羽田空港に5時半につき、朝6時45分発の始発飛行機で関空に行った。シドレンコ(8時55分着)、マルドロット(11時着)を出迎えるためだ。私は夜も強いが、朝も強い。そういうふうに訓練してきた。
3日から神戸の実家に3泊して大阪へ選手の世話に通い、6日に一度東京に帰り、7日事務所で契約書などのチェックをし、その日のうちにまた大阪へ戻った。今度はレフェリー、ジャッジの世話のためで彼らと同じホテルに泊まった。
マッチメーカーの仕事の中で、外国語を話す機会がある。10年前の事件のあと、英語とスペイン語以外の勉強は一旦やめた。そのかわり、もっといい英文をかけるよう集中的に勉強した。どんなに疲れて帰っても、2階にあがり机に向かう習慣がついた。限られた時間の中で何かを勉強しよう、しかも持続的に何かをしようとすると、意志の力と体力がいる。誰でも疲れたときは怠けたくなるからだ。
満足に英語も書けないのに、なぜスウェーデン語やデンマーク語をかじるのだ。だから、英語のみを多読した。ほかの外国語能力はガタガタになった。それまでは英語と並行して他の外国語も辞書を引いて読めていたのに・・・。これも10年前のサスペンド事件の余波だ。
いま私の英文は米英人から褒められることがある。それは理科系の英語だからだ。明晰で曖昧さがなく、そのうえ多読の効果によるリズムがある。そんな文章を書こうといつも努めている。
60歳になってやっと外国語の勉強法がつかめた。今後は、それを英語、スペイン語以外の外国語に適用したい。そして速習法も大体つかめた。残る人生、外国語を学ぶのが目的ではないが、徐々に力を伸ばしていきたい。学び続ける意志があればできる、と思う。
マルドロット一行は、英語が通じず、スペイン語も解しない。公式行事は通訳がついたが、日常の世話に最初は苦労した。イタリアに初めて行ったのは28歳のときだから、32年前だ。そのとき、即席で、といっても2ヵ月くらいかけて勉強した。そこで、今回イタリア語を速習・復習することにした。
神戸から大阪に通う電車の中で、小声でぶつぶつ発音しながらイタリア語の会話の本を読んでいた。隣で寝ていた若い女性が舌打ちした。声を慎んだが、彼女の不快感がわかった。「うるせえな、この親父」といった感じだろう。神戸弁なら、「うるさいなぁ、このオッサン」だろう。三宮で新快速に乗り換えるため、席を立った。関西の電車は東京のように窓側に沿って席が設けられているのでなく、バスや新幹線のように進行方向に向かって2人ずつ腰掛ける形だ。窓側の席から彼女の前を通って出ようとしたとき、靴で足を蹴られた。目が合った。憎しみの目だった。
私は子供のときから、やられたらやり返すのを信条としている。だが、相手は女だ。痛みのためムカッときたが、そのとき心の中で「殿堂」という言葉が鳴った。殿堂入りした人間がつまらぬことで喧嘩するな、という警告だ。「すみません」と本来あやまる必要のない謝罪をして車外へ出た。新快速に乗ってもまだ足首が痛かった。
苦笑しながら考えた。なぜ彼女は私を蹴ったのだろう。他人が夢中になって何かしているのを見て不快を覚える人もいるのだろう。彼女から見れば訳の分からない外国語を私がブツブツ発音しているのが、それほど不愉快だったのか。本当に人には聞こえぬほど小さな声だったのに。
イタリア語の数字
1 ウーノ 宇野さんはいつも一番
2 ドゥーエ 2階へどーえ(京都弁)
3 トレ 3トレ・ウィスキー
4 クアットロ いいトロが入ったから、あなたに食わすトロ
5 チンクエ チンクエな奴だ
6 セーイ ろく(6)に誠意もみせず何だ(クレーマー)
7 セッテ ラッキー7は競っている
8 オット 夫は八つぁん(落語)
9 ノーヴェ 9杯は飲−べよ
10 ディエーチ 丁稚(でっち)に来て10年
11 ウンディチ 丁稚がトイレに入る
12 ドディチ ド阿呆な丁稚
数字を覚えてしまうと、「明日(domani ドマーニ)、何時だよ」と確認できる。
こんなことを言っているから、女の子に足を蹴られるのだな。連日、ホテルから大阪帝拳ジムに行く約15分、私が片言のイタリア語を喋り、マルドロット一行はおもしろがって発音を直してくれた。笑うかどには福来る。母国語を苦労して話してくれるマッチメーカーに対しては協力が生まれる。すべてがマルドロットおさまる。
(1−12−08)
私の名誉の殿堂入りのニュースに接し、みんなも驚いただろうが、私自身が驚いた。これは私のジャーナリストの側面を評価されたので、マッチメーカーの側面ではない(マッチメーカーとしては決して一流とはいえない)。辛抱するものだな、というのが実感だ。というのは、私のようなボクシングさえ見ていればご機嫌のボクシング狂が、一度ボクシングをやめかけたことがある。それは約10年前の偽者ボクサー事件のときである。
3ヵ月間JBCにサスペンドされた。こちらに言い分は多々あった。事前に事件が判明していたのに管理責任者の私に対して何の調査、情報もなく、事件を起こしたタイのマッチメーカーのパンヤがポンサクレックの世界戦(たしか名古屋の浅井戦だった、と思う)で来日しているのに、JBCは何の調査もしなかった。Sスポーツが一面で扇情的にこの事件を取り上げ、それからニュースショーが騒ぎ出しバッシングを受けた。
このSスポーツの記者はそれまでリング・ジャパンにレコードや情報を求めるため頻繁に電話してきていた。彼の記事のためにどれだけレコードを調べたりして時間を割いて貢献したか。しかし、それだけ懇意なはずなのに、こんなニュース種が出てくると、過去の恩義を忘れ、手のひらを返したように一面で悪意に満ちた記事を書いた。サスペンドの源はこのSスポーツの一面記事だった。世の中、せちがらいものだな、と思った。
この一面記事をあれから8年ばかり事務所のトイレの扉に張っていた。毎日、それを見た。それが、細部に注意を払い慎重に仕事をしよう、という原動力になった。
殿堂入りが新聞に載った翌日、そのO記者から私の携帯に電話がかかってきた。本当に驚いた。彼と話すのは実に10年ぶりだ。彼は祝福してくれた。その瞬間、10年にわたる恨みは氷解した。私は彼への憎しみをひとつのバネとして仕事をし続けていた。しかし、そんな過去のことはどうでもよくなった。
私は戒告程度かと思っていた。物部康夫弁護士とJBCを訪れ、事情説明をした。WBC会長やOPBF会長からJBCに穏便な処分を求める要請があった。ところが、JBCは世間の騒ぎを抑えるため私に3ヵ月のサスペンドを課した。それは屈辱であった。私はそれまでJBCの文書の翻訳など陰で小島局長を補佐してきた。それもあったから、これほど重い処分が下されるとは思っていなかった。そこが甘かった。
物部弁護士にいった。「不服訴訟をしましょう。すぐ反論の記者会見をします」
弁護士は問うた。「不服訴訟をして何をどうしたいのですか。管理責任はあるでしょう」
「3ヵ月は長すぎる。せめて戒告か1ヵ月程度のサスペンドなら受けてもいいですが」
「不服訴訟をして、そのあとどうするのですか」
「ボクシングをやめますよ」
「よしなさい。3ヵ月を1ヵ月にするため、どれだけ時間と経費がかかりますか。1ヵ月以上かかりますよ。コミッションも一旦出した裁定を簡単にはくつがえさないでしょう。あなたはボクシング界にとって必要な人じゃないんですか」
「これだけ一生懸命働いてきたマッチメーカーをこの程度の事件で3ヵ月もサスペンドするのは行き過ぎだ、と思います」
「あなたはこの程度というが、世間はそのミステイクを問題視しているのでしょう。我慢すれば、いいんです。3ヵ月くらいすぐ経ちますよ」
この物部先生はやはり年長者だけあって偉かった。先を見る目があったのかもしれない。
ボクシングをやめてどうするか。私は吉田松陰の松下村塾のような私塾を作ってみたい気持ちがあった。そこで何を教えるか。速読術、特に英文速読術を教える。現代人は本を読まないが、多読による効果が事実ある。多読のためには速く読まねばならない。読むのが遅いから、先に読んだことを忘れる。速く読めば、先に読んだ記憶が残るうちに前に進める。短期間に集中的に多く読むことにより、情報が濃縮化する。それを効果的に活用する。そんな私塾を試してみたかった。
しかし、私塾を作るのはいつでも出来る。隠居してからでも出来る。あのサスペンドを食った頃から、心を入れ替えて勉強し始めた。体も鍛えなおし始めた。TV解説、スポーツ誌執筆を謹慎し、勉強の時間がとれた。その間、本を何冊か書いた。自分の人生に対して多少は真面目になったのだろう。あれから10年、地道に知識のうるし塗り作業をしているうちに、10年以前よりいい英文レポートが書けるようになってきた(それまでは、ただ機械的に試合結果をレポートするだけだった)。
なぜあのときボクシングをやめなかったのだろう、会社勤めをやめてボクシングを専業とした生き方をつくづく後悔したのに。サスペンドされた3ヵ月間に40数試合を組んでいた。興行に対する責任があった。やめるにしても、責任だけは果たしてからにしないと、仲間に迷惑がかかる。トカゲのシッポ切りとしてサスペンドは受けても、やるだけのことはやらねばならない。だから、やめられなかった。そして、こんな目にあっても根っから好きなボクシングをもっと見たい、という気持が残っていた(このあたりの事情は、未発表の小説「密約」に書いてある)。
いま考えると、あれは試練だったのかもしれない。あれで人間として自分の中に筋金が入った。逆説的に、あのおかげで時間をさいて勉強しだしたから、名誉の殿堂に入れたのかもしれない。そして人を疑う目ができた。
「Fightnews」の編集者、カール・フライターグが殿堂入りに対して次のような祝辞を送ってきた。
Dear Joe,
Congratulations on your induction to the Hall of Fame. You have great talent as a writer as your reports always entertain as well as inform.
Your induction is much deserved and I am glad to see your efforts recognized. It is a great honor to publish your notes on our humble site.
Best regards,
Karl
ありがたい、と思う。しかし、私は世界で存命する数少ないナット・フライシャーの弟子だ。私にファイト・レポーターとしての素質があるなら、もっと磨かねばならない。約50歳までボクシングが面白いからといってそれに流されるような生活をしていた。自分を鍛えること、磨くことを忘れていた。あと何年生きられるか、分からない。その間、筆を磨くのは師フライシャーに対する返礼だ。
最近、ボクシングに飽きるときがたまにあった。そこに名誉の殿堂入りだ。サスペンドや殿堂入りで、上げたり下げたり、私の人生を翻弄するのはいい加減にしてほしい、という気持がある。だから、素直には喜べない。「初心を忘れるなよ」という戒めを与えられた感がある。冷や水を浴びて、目が覚めたかのようだ。もっと精進せねばならない。
もう一度、サスペンドされたら、そのときはボクシングをやめたい、と思う。もう十分、ボクシングの面白さを味わった。残りの人生で別の生き方をしたい気持が心の片隅にある。私塾を開くか、隠居をして晴耕雨読の生活を営むか、ボクシング以外の分野の著述をするか、あるいはもうひとつ別の生き方もある(それはここでは書けないが)。しかし、もし幸いにして10年前のように自分の誇りを傷つけられることなくボクシング界で生きられるなら、70歳、80歳、90歳になってもボクシング会場に足を運び続けたい、と思う。昔の平沢雪村先生、郡司信夫先生のように・・・。
ただし、いつプライドを傷つけられるか分からない、こんな危険なビジネスだから、ボクシングをやめても生きていける準備だけはしておこう、と思う。
(1−8−08)
リング・ジャパン会報用の自伝第1回を書き終えた。1月号から連載する。新幹線の中でほぼ書き終え、細部は帰宅後チェックし、推敲した。
自伝のタイトルを3つ考えた。
1. 人生、実験場
2. 人生うるし塗り
3. 故郷喪失(ドイツ語でHeimatlos)
1は、自分の何でも試してやろう、失敗してもそれは実験だ、という気性からきている。私は失敗を恐れぬ無謀なところがある。
2は、私が10年、20年計画を立て、地道に語学や書道に取り組む性質から来ている。「リング」誌の英文レポートもあと7年で50年になる。それは一種のうるし塗り作業だ。
3は、故郷広島を失った父、神戸を去った私を象徴する。
結論として、3の「故郷喪失」を主題とし、「ジョー小泉自伝序章」を副題とした。
なぜ私のような(自分から見ても)変わった人間ができあがったのか。第1回を書き終え、原稿を会社に送り終えたとき、この自伝を書き続ける中で分かってきそうな気がした。
私は非常に粘り強く、なかなか勝負をあきらめない。ともかく頑張る。努力する。挫折してもくじけない。粘る。なぜこんな人間になったのだろう。子供の頃は、気分屋ですぐ飽きる性分だったのに・・・。それも自伝の中で解明されていくだろう。
高名なノンフィクション作家KT氏に私の伝記を書く気はありませんか、と問うた。彼は捉えきれない、といい固辞された。それなら、たとえ少年時代だけでも、自分でしか書けない部分だけでも書いておこう、と思った。私の死後、資料を整理しておき、彼に送る。それを元に書く書かぬは彼の自由だ。
ビートたけしに「たけしくん、ハーイ」という自伝がある。彼の父親は職人だった。私の父親は設計技師で、いい意味でも悪い意味でもインテリそのものだった。そんな家庭に育った私がどうしていまのようなマッチメーカー兼もの書きになったのか。それは自伝が物語るだろう。
(1−6−08)