たとえば関西へ一泊で出張する場合と日帰り出張する場合とでは、どちらが楽か。私の場合、日帰りの方が楽だ。荷物が少なくて済む。まるで後楽園ホールに観戦しに行くのと同じ荷物(パソコンと資料持参)で出られる。洗面具と着替えが不要だ。荷物が少ないと移動が楽だ。
ただし、往復の新幹線車中で読む本の選択がひと仕事になる。家内が駅まで車で送ってくれるので、早く出るようにせかす。いましばし本の選択に手間どる。なまじ若い頃、速読のトレーニングばかりしていたので、大阪まで往復5時間、神戸まで往復6時間の間、少なくとも3冊は必要だ。厚い本なら1、2冊で済むが重い。だから、選択に迷い、家内に怒られる。
9日(木)は、世界王者クリス・ジョン一行来日後、詳細手配の確認のため、神戸まで日帰り。
12日(日)は、ロリー松下、三谷将之のOPBF戦のマッチメークのため、姫路経由、高砂まで日帰り。
持っていったのは、
英国ボクシング・ニュース(薄くて読みしろがあり、とてもいい)
HANDS OF STONE (厚い洋書;ロベルト・デュランの伝記;面白い)
和漢書道史(藤原鶴来、二玄社)
デュランの父親はメキシコ人でパナマへの出稼ぎ労働者だった。父親と再会し、「なぜ俺たちを捨てた」という怒りと探し求めた親に会えた喜びが輻輳するところがいい。父親に(母方の)祖母の名前などを詰問し、本当の親かを詰問するところが捨てられた子デュランらしい。父親は世界チャンピオンになったデュランに金を求めて会いに来たのではない。彼にもプライドがある。一度は涙ながらに抱き合った二人だが、デュランが連絡をとろうとしても電話に出なくなる。父はもう他の女と生活していて、いまは別の人生を歩んでいる。有名になった息子に金目当てに会うと思われるのは嫌だ(その気持ちはわかる)。そしてまた互いに音信不通となる。悲しい話で、まるで映画の「ひまわり」のようだ。
そんな話を読みながら、ときには昼寝をしながら2往復。書道史の方を読んだりしていたから、読み終わらなかった。次の16日からの神戸行きで読み終わろう。
(8−12−07)
ギリギリまで事務所で仕事をし、大場の試合に間に合うように飛び出した。
パソコンばかり使っていたので眼が疲れ、電車の中でぼんやり窓の外を見ながら、頭の中で俳句を作ろうとしたとき、ふと「ボクシング・ユートピア(理想郷)」を想った。
そこで出来た詩が次の通り。
ボクシング・ユートピア(理想郷)
試合では
敵と味方に
別れても
元々、仲間だ
わきあいあい
リングの外では
助け合い
みんなで築こう
よりよい
ボクシング界
ボクサー
マネジャー
トレーナー
一致団結
勝利をめざし
勝って笑い
負けて泣く
どのジムも
みんな順番に
チャンピオンを育成し
築いたジムを
息子に譲る
コミッション
協会
ファン
一体化
好カードを推進し
つねに話題を集める
ボクシング界
もっと人気スポーツになり
もっと視聴率を上げ
もっとファイトマネーを上げ
もっとジム収入を増やし
みんなみんな豊かになろう
ボクシング界
ジョージ・オウウェルの「動物農場」の歌みたい。
(8−8−07)
8月19日の玉越強平の対戦者はOPBFランカーのリード・サブ(インドネシア)からハイメ・バルセロナ(比国)に変更。JBCの変更指示に沿った。
8月18日の山口裕司の対戦者、インドネシア・ウェルター級王者アスウィン・カブイの招請書類もやっと揃った。これで間に合う。
インドネシアのエージェントに対し、督促のため怒鳴らなかった。私の口調はまるでフーテンの寅さん。
「ヨー、大将、すまないがもう一度、これで3度目か、レコードがちょっと違ってるんだ。ちょこっと直して、インドネシア・コミッションのスタンプを取ってほしいんだ。悪いな(こちらが謝る必要はないのだが)。本当にいつも言えばすぐやってくれて感謝してるよ。大将、いま一度頼まぁ、レコード提出を」
いつもの仕事ぶりをほめて、やる気を引き出し、急ぎのレコード再提出をしてもらった。これでJBCの厳しい基準をパス。すべてめでたし。
うちのエージェントの中で、韓国とインドネシアはこのほめ殺しが効く。
比国とタイは、「オイ、何やってんだよ」と怒る方が効く(しかし、怒鳴ったら逆効果)。
あとはクリス・ジョン一行の次々増える応援団のビザ手配だ(これも急ぐ)。
そしてバラバラに来る一行の来日日程の表を作らねばならない。
クリス・ジョン自身は今朝関空に着いた。ひと安心。
(8−8−07)
招請手続きのため、JBCにその国のコミッション認定のフルレコードを提出しなければならない。JBC新体制の要求だ。以前は何勝何敗と申請するだけでよかった。
たかがその程度の要求に対し、アジアの各国はスムーズに応答できない。
アジアは貧しい。アジアは遅れている。
そのうえ、ボクシングに携わるような人間は教育程度が低く、知的でも事務的でもない。教育があれば、こんなボクシングのような世界に入ってこない。そんな人たちがアジアのボクシング界を構成している。
試合のやっと2週間前、そのフルレコードが届きJBCに提出すると、試合不許可といわれた。最近の連敗のためだ。なぜもっと早くレコードを出してくれなかったのだ。と、怒鳴っても仕方がない。私はもう疲れた。こんな遅延の繰返し。なだめても、励ましても、怒っても、時が過ぎると、元の木阿弥。従来の怠慢にもどる。今回、また最初から選手を組まねばならない。
たかがアジアの近隣の国から選手ひとりを招くのに裏でこんなに苦労しているとみんな知らないだろう。
リング・ジャパンが組む試合数が多いためかもしれないが、JBCへの提出書類を督促し揃えるためだけにどれだけ電話、FAX、Eメールに時間を浪費せねばならないのか。
なぜ、たかがこの程度の要求に応えられないのか。そこにアジアの病根がある。いい加減病、なまけ病、適当病だ。
しかし、怒鳴るのを我慢した。怒鳴って書類が早く出てくるならいいが、相手は怒鳴られたことに反発するだけだ。
いまのレコード取り寄せ体制はマッチメーカーへのしわ寄せがきつ過ぎる。理想的には、コミッション間でレコードの照会をしてもらうのが本筋だ。それは本来コミッションがなすべき仕事なのだ。できるだけ新体制に協力する姿勢だが、あまりに細かいことを要求されると、こちらはもう我慢の限界にきている。一体どうすればいいのだろう。
日本もアジアの一員だ。幸いにして、他の国より早く欧米化して先進国の仲間入りをして、能率的な社会を作った。しかしアジア諸国に日本と同じ基準を求めるのは無理ではないか。どうも悲観的になってきた。何かいい方法はないのだろうか。
アジアは仲間だ。仲間を怒鳴ってはいけない。だが、事務作業のレベルが低すぎる。そして書類ひとつにしてもそれを真面目にきちんと仕上げようという意欲が低すぎる。拳闘屋にそんなことを要求するのが所詮無理なような気がしてきだした。
(8−6−07)
小田実が亡くなった。
これまでいろんな作家の本を読んだ。著作のほとんどすべてを読んだのは、漱石、鴎外、龍之介、司馬遼太郎、山口瞳、加藤周一などだが、特に影響は受けなかったように思う。エンターテインメント(娯楽)として読んだからだろう。
しかし、小田実の一冊の本には影響を受けた。
「何でも見てやろう」だ。この本の初版は1961年2月20日で、私が13歳のころだ。私が持っているのは、42版で5月10日発行のものだ。わずか3ヵ月で42版が出たのだから、大変なベストセラーだった。それはアメリカ、ヨーロッパ、アジアを回った若者の旅行記だった。当時、海外旅行が非常に難しかった。「ああ、いいな、世界中を見たいな」と子供心に思った。
それがいまの国際マッチメーカーの生活にいきている。私は旅に出て、いろんな国の人たちの生き方、また街並みを一目見ることに興味を覚える。それを刺激したのは、「何でも見てやろう」という本だった。
いまでもときどき「マッチメーカーなどにならなければよかった」と後悔することがある。生まれ変わったら、絶対こんな仕事しないぞ、と愚痴をいいながら、夜12時ごろまで仕事をすることがある。知的レベルの点では低い仕事だ。しかし、誰かがしなければいけない重要な仕事だ。だから我慢して夜中まで頑張る。
しかし、このマッチメーカーの仕事にはいいところもある。文化交流だ。文化の違いを理解できることだ。国が違えば、考え方が違う。小島局長がやめ、新しい体制になってから、コミッションは書類提出が俄然厳しくなった。コミッションの指示通りタイ、比国、インドネシア、韓国などに書類を督促しても、なかなか出てこない。試合の日程は迫ってくる。コミッションの書類請求は厳しい。
日本だけが小さな島国だから、十把ひとからげで何でも管理しやすい。われわれが受けた教育から、決められたことは守ろう、という風潮がある。ところが、アジア諸国の文化はそうではない。「では明日」、「では来週」といった(日本人の眼から見たら)怠慢が通常である。日本は彼らをわれわれの方式に従わそう、とする。まるで大東亜共栄圏の時代のように。
そこに無理がある。アジア諸国でボクシングを業とする連中は貧しく、コミッションの人たちのように教育を受けていない。ものごとをすぐ処理する訓練を受けていない。満足に英語を、ローマ字さえ書けない。督促しても督促しても、書類が来ない。何度も電話をするが、明日が来週、再来週になる。日本人に対するようにはいかないのだ。
コミッションの若い人たちは私ほどには海外旅行の経験がない。アジア各国のコミッションに視察旅行に行ってみるといい。書類管理においてどんなレベルであるかが分かるだろう。日本人が特殊なのだ。記録管理にまめで、重箱の隅をつつくようなことばかり、国民相互でやり合う。
夜中、事務所でひとり笑うことがある。苦笑だ。マッチメーカーはコミッションとアジア現地のエージェントとの間のサンドウィッチだ。何でこんな空しい書類督促の時間をこんな夜中まで続けねばならないのか、と思う。笛吹けど踊らず。督促すれど、書類は来ず。それが来ないと、来日手続きができない。リング・ジャパンが一山あてれば、コミッションの若いスタッフの視察旅行基金をプレゼントしたい、と思う。「アジアを見てきてください」と。
小田実追悼から話がそれた。
「何でも見てやろう」にあれだけ影響を受けながら、私自身、本の虫なのに、小田実の本をそれ以外一冊も読んだことがなかった。彼がかかわっていたべ平連の活動などにも興味がなかった。私はトレーナー時代、次から次に頭に浮かぶコンビネーションブローの組み立てばかり考えていた。私は最近はやりの逆ワンツー、右リード、内外のコンビネーションの打ち分けなど二十代のころにもう考案していた。それを実行できなかったのは、クラブ制度ゆえの会長の「妙なことを教えるな」という掣肘(邪魔、戒め)だった。
逆ワンツーというのは、実はワン・ツー・スリーで、ワンをあえて打たないだけだ。それはツー・スリーなのだ。右ショートから左フックの返しは当時でも実行されていた。しかし、ツー・スリーをストレートで打ち、スリーの方を強く効かすのは例がなかった。相手が予想しないコンビネーションは当たる。効果的だ。いまでも他人から見れば「妙なコンビネーション」をいくつか持っているが、教える機会がない。教える選手がいない(ランディ・スイコでは消化できない。アブラカ・トレーナーも頭がかたいから、理解できない)。
6月5日の朝日新聞に「小田実さん がんと闘病中」という記事があった。「みんな運動家と思っているようだが、私は作家なんだ」という言葉が引用されていた。実は、私も小田実は平和運動家なのだ、と思っていた。そうか、小田実は作家なのか。
その日から「何でも見てやろう」以外の小田実の本を読み出した。
読んだのは、
玉砕
アボジを踏む(川端康成文学賞)
オモニ太平記
中流の復興
終わらない旅
アジア紀行
小田実の眼はつねに弱者、愚者に対し温かい。そして弱者、愚者を弁護することにおいて勇敢だ。そこに共感を覚える部分がある。私のようにアジアの人たちと日常的に接触する特殊な仕事では、小田実的な眼が必要なのかもしれない、と考えさせられた。
小田実とジョー小泉が並んでボクシングの試合を見るとする。小田実は倒されたタイ人や韓国人をかわいそうにという眼で見る。私は勝者を見る。その偶発的な倒し方の中から、他の試合にも援用できるエッセンスを脳裏に刻み込もうとする。私が冷たいのではない。職業柄、そんな眼を持つように私は自分を習慣づけたのだ。だから、これだけいろんな倒し方のパターンが私の中に積み重なっている。多分、小田実はボクシングを好きではなかっただろう。特に日本人がアジア人を倒しまくる試合は。
一度だけ小田実と会ったことがある。韓国ソウルのリッツカールトンホテルのレストランでだ。たしか池仁珍、洲鎌戦のときだった。私は家内と一緒、小田実は若い(若く見えた)韓国人の女性と一緒だった。声をかけ、「何でも見てやろう」を読ませてもらった礼をいおうか、と瞬時思った。しかし、女連れのときは声をかけないのが大人の分別だ。だから、思いとどまった。著作を読んで、在日韓国人の玄順恵という人と結婚していたと知った。あれは奥さんだったんだ。それなら、声をかけておけばよかった、と思う。
日本はアジアの中では金満国だから、どうもアジア人に対して横暴になる面がある。欧米人に対しては敬意を払うくせに、アジア人を見下す。それは小田実的観点からはよくない。同じ人間なのだから。
かくいう私もときにアジア人の怠慢さに腹を立て怒鳴ることがある。「何度督促をすれば分かるんだ。いい加減にしろ。仕事が終わらないじゃないか」と。仕事を済ませて帰って読書や習字ができない、と苛立つ。しかし、督促にも礼儀がある。それを忘れてはいけない。怒鳴ってはいけない。私にプライドがあるように、彼らにも誇りがあるのだから。
小田実のすべてが好きなわけではない。彼の平和運動や憲法九条護憲に関する意見と私は違う考えがある。しかし、彼の作品を読んで、その一部は非常に好きになった。私もアジア人に対し、暖かい眼を持つようにしよう。それが7月30日に逝った小田実に対する私の追悼だ。
コミッションに対しては、いずれ書類管理法一部変更の要望書を出すつもりだ。
(8−4−07)
いわば自由業だし、試合や計量やテレビの解説が土、日曜にあるのだから、ウィークデイに美術館、演奏会、映画に行ってもいい。ところが、それができない。元はサラリーマンだから、ウィークデイに休む、遊ぶことに抵抗がある。だから、結局、年から年中仕事をする労働中毒のようになる。
徳村先生から毎日書道展、その中の金子鴎亭展のチケットを頂戴した。だから、珍しくウィークデイに出かけた。7月23日(月)、六本木の国立新美術館へ。この新しい美術館を訪れるのは初めてだ。
小雨降る日の昼前、まだ人の少ない美術館で田岡先生(わが師徳村先生の師匠)はじめ数多くの作品を見ているうちに、何か自分が書道をしていることが厭になってきた。あと二十年書き続けても、とてもこんな立派な線は書けないだろう。ため息が出た。
私などまだ三年の初学者だが、残念なことに始めるのが晩かった。上達してもたかがしれている。そこが悲しい。書を極めるには何十年とかかる。
後楽園ホールで徳村先生に声を掛けられ、師事するようになったが、生活の中で書道の時間を取るのに四苦八苦だ。毎日一時間と土、日曜で六時間、せいぜい週十二時間がやっとだ。これではなかなか上手くならない。
ただし、書道はボクシングに通じるところがあり、毎日休まずロードワークを積むとスタミナがつくように、毎日筆をとると徐々に滑らかに字が書けるようになる。
私の本来の時間の優先順位はこうだ。
仕事(マッチメーカー、TV解説者、評論家、RJ社長業)>運動(1日1時間:隔日、水泳と1時間の散歩;体が資本)>読書(本を読むのは習性)>執筆(いま小説を書いている)>語学の勉強>習字>遊び(映画など)
いつも時間がない。仕事を早く終え、机に向かいたい。辞書を引きながら本を読みたい。習字をしたい。いつも消化不良感を持って一日が終わる。本当はもっと習字がしたい。いま優先順位で、習字が運動の次、読書より上に来ている。頑張っても先が知れているのに・・・。
私の書道の系列はこうなる。
日下部鳴鶴>比田井天来>金子鴎亭>田岡正堂>徳村旭厳>ジョー小泉
だから、故金子鴎亭(敬称略)は大先生になる。高名な書家で、文化勲章を受けた。近代詩文書という漢字かな混じり文(調和体ともいう)の新分野を開拓した先駆者だ。従来は、漢字作家とかな作家と活動分野がわかれていた。たしかに、われわれ現代人が書くのは、漢文でなく、かな主体でもなく、漢字かな混じり文なのだから、詩文書の流れが出てきたのは必然だったのかもしれない。
私には前衛書がわからない。どこがいいのか評価、鑑賞できない。第一読めない。ただ立派な線で書いているな、と感心するのみだ。画家と同様、他人とは違う自分のスタイル(書体や線)を編み出すのは大変だろうな、と創造者の苦労を思う。私は王義之、顔真卿などの名跡の真似をしながら、それで一生が終わるだろう。
帰る前、鴎亭先生の半紙大の手本「書法究尋」の第一集を求め、美術館の食堂でツナサンド(好物)を食べながら見ていたら、カタログに第八集に王献之(王義之の息子)の書の臨書があった。急に欲しくなり、一旦出た展覧会場に戻り、「もう一冊欲しいのでちょっと入れて欲しい」と、さっき使った入場券を見せて頼んだ。書道をする人たちは寛容だ。許可を得て、その第八集を追加購入した。見るだけでも眼の保養になる。一生かかっても鴎亭先生のような線は書けない。
書道家には年齢的にも、多忙な生活の時間的制約からも、もうなれない。意識転換をしないといけない。高望みをせず、もっとペースダウンをする。その代わり、素人として一生書き続ける。上手く書けず自己嫌悪におちいることがある。しかし十年、二十年書き続ければ、ちょっとはましな字になるかもしれない。生活の中にこのように毎日、鍛錬、修練する時間を持つのは精神修養になる。
最近、和漢書道史の本をよく読むが、これを中国の歴史、漢文、漢詩、日本史への興味に拡げるのもいい。そう思い直し、また今日も書くか。展覧会に行くたびに自信喪失し、習字をする気が失せていては仕方がない。要は思いようだ。
(7−29−07)
岡山大学で講演した翌日、帰京し、帰途銀座の鳩居堂へ寄り奉書紙を買った。巻紙で礼状を書くためだ。
以前、徳村先生に出張教授に来ていただいた折、巻紙を書く方法、形式、折り方を教わった。一度手持ちの巻紙で先生に手紙を出したが、あまり上手く書けなかった。あとで考えると紙の表裏を間違えていた。だからあんなに滲んだのか。
帰宅してすぐボクシング部監督の丸山先生と学長に今回の招待の礼状を書いた。なかなかいい。気分は書聖、王義之だ。追って丸山先生から電話があり、「巻紙の手紙というのはいいですね」といわれた。
巻紙で手紙を書くことに問題がある。それは途中で失敗をしたときだ。目上の人に礼状を出すとき、途中で誤字、脱字があった場合、便箋ならその頁を没にし書き直せばいい。ところが、巻紙の場合、最初から書き直すとなると大変だ。×を入れて直しそのまま書き進めるか、あるいは最初から書き直すか、大いに迷う。私ごときの技量で巻紙を書くことが無謀なのか。いや、書き慣れれば、ミスは少なくなるだろう。
(7−24−07)
ホルヘ・リナレス(帝拳)が今日見事、強豪オスカー・ラリオスを10回TKOで破り王座を獲得した。これは日本のボクシング界にとり活性剤になる快挙だ。
17歳で日本においてデビューし、これまで着実に伸びてきた。今後、経済的に日本人選手の日本国内での世界挑戦が難しくなることが予想される。リナレスにならい、日本で実力を磨き、海外での世界戦で王座を獲る必要が出てくる。リナレスの勝利はその先駆的成功例である。
(7−22−07)
あとがき
「マッチメーカーの回想」のあとは、「マッチメーカーの冒険」そして「マッチメーカーの帰還」を書こう、と思っている。何だ、まるでシャーロック・ホームズ・シリーズじゃないか、と笑われそうだが、タイトルを借りるだけである。
携帯メール小説を書いていたとき、毎週、2000字以内(当時、携帯メールに文字数制限があった)のショートストーリーを作った。この程度の長さが読みやすいかもしれないが、次の短編集のときは字数制限を考えず面白いフィクションを書いてみたい。
この短編集の中で自分が好きなのは、「天使と少年」と「コブラ」だ。「ジョージの失踪」は職場放棄のようで外そうと思った。それは多忙すぎて心中、逃避思考が起こったときの空想で、自分としては荒唐無稽で好きな話なので残した。
ひとつ注釈がある。この短編集に出てくる「チャンプ」は世界チャンピオンの略称で、必ずしも同一人物ではない。その話の中のチャンピオンだ。
次の短編集に、どうぞご期待ください。
2007年7月
ジョー小泉
まえがき
ボクシングをテーマにした短編小説を書いた。国際マッチメーカーとして生活しながら、数多くのおもしろい経験をし、興味ある話を聞いた。それをフィクションにしたり、空想で話を作ったりしたものをまとめた。すべてフィクションである。最初、「老マッチメーカーの回想」と題し、携帯メール小説の形で流した。
「老マッチメーカーの回想」から「老」を削除したのは、続編を書く意図があるからだ。そのため、最初のメール小説から、老マッチメーカーが観戦中に亡くなる「化石」を省き、小説集として出すにはあまりに辛らつな「毒舌」も割愛した。その代わり、「あの女」と「再会」を書き下ろして加えた。さらに全篇を読み直し、その一部を書き改めた。
パソコンの画面で読んでいただくため、WORD文書で文字は14ポイントと大きくしている。しかし、もし画面を見続けるのは眼が疲れていやな人は、下記の通りプリントアウトして読んでいただいてもいい。
(1) CTRLとAを同時に押し、画面をすべて選択する。
(2) ポイントを10.5か11にしてプリントする。
(3) ほとんどすべての作品がA4の4頁以内におさまる。
このフィクション集を楽しんでいただければ幸いである。
ジョー小泉
6月23日、岡山大学スポーツ教育センターで講演をした。
テーマは、「実力評価と目標達成法」。
P Plan 計画
D Do 実施
C Check 見直し
A Action 修正
に加えて、
E Evaluation 実力評価
の段階を置く。
PDCAサイクルが一回りすると、実力が向上し、その向上した実力を元にまた計画をねりなおし、また次のPDCAサイクルに進む。
これはボクシングのトレーニング、他のスポーツのトレーニング、あるいは学習、たとえば語学習得にも適用できる。そのような主旨で話した。
岡山大学ボクシング部監督、丸山圭介先生からの依頼で行かせていただいたが、歓迎を受け感謝に耐えない。
決まったのは数ヵ月前で、準備期間は充分にあった。当初、ボクシングの練習法を他のスポーツのトレーニング法と対比することを話そう、と思っていた。ところが、丸山先生からスポーツマンも勉強をしなければいけない、という「学問のすすめ」、特に語学習得法を主眼に話してほしいという要望を受け、方向転換。
100名以上の聴衆がいたが、ほとんどは20歳前後の若者だった。他は先生方とかボクシング部OBなど、一般の人たちもいた。
最初の30分は、人生経験を話すつもりでいたが、それが45分になり、1時間半の講演の半分になった。だから、後半で特に語学学習、特に反復訓練(これはボクシングにも通じる)の重要性を話した。
私はこの頃、「社会においてボクシングとは何か」について考えている。というより、迷っている。その答を探す過程で自分自身を探したいとも思っている。私はボクシングの中には、他のスポーツの中に科学があるように、科学(コツ、ポイント)がある、と思っている。だから、他のスポーツの一流コーチに対しても、ボクシングの特長を話せる。ボクシングは至近距離で相手のパンチをかわし、相手にパンチを打ち込む特殊性がある。私はボクシングは超一級のスポーツだ、と思う。
どんな講演をしても後悔が残る。あそこをもう少し詳しく話すべきだったとか、あそこは省略してもよかったとか。出来については70点くらい。残り30点は、本論にもっと時間を割きたかった。辞書の引き方、速読法など横道にそれたのが時間を食った(それはそれで面白かったと思うが)。
前日夜に岡山入りし、当日の昼前、丸山先生ご夫妻に後楽園を案内していただいた。暑い日で、大学の講堂に入った方が心地よかった。話していると、相手により分かりやすく話そうとするので、自分としては頭の中で考えていたのとは別の表現法になることがあり、それは自分にとり発見である部分があった。
おかしかったのは、計20回のスポーツ講座(私は第7回目)の他のプログラムを見ると、スポーツと腰痛、スポーツ障害、イメージトレーニング、スポーツ心臓と不整脈、スポーツ哲学など硬いテーマばかり。講師も、医学部や教育学部の先生がほとんどで、プロボクシング国際マッチメーカーという肩書きの私だけが変わっていた。
以前、リング・ジャパンに務めていた久保田君に会え、車椅子だが私の講演の聴講を許可していただいた。彼が元気そうなのを見て安心した。
講演当日の朝、ホテルの近くを散歩していたら、備前焼の名店があった。そこでいろいろ見ていたら、素敵な水滴(書道の水差し)があった。それを徳村旭厳先生への土産として買った。講演で書道とスポーツ・トレーニングの共通性についてちょっと触れたが、これも考えるに値するテーマだった。
高齢の丸山先生がOB諸氏や現在の部員諸君に囲まれ、いろいろ指示するところを見せていただいた。そこに長幼の序があり、心を打たれた。
この講演に備えて、数ヶ月間、いろんな普段手に取らないような本や講演録を読んだ。私自身にとっても今回の講演の機会を与えられたのはためになった。ご招待いただいた関係各位に感謝いたします。
(7−16−07)
私の運転はこわいらしい。自分ではそうは思わないが・・・。
この前、妹が上京してきたとき、家内と一緒に私が運転した車に同乗した際の恐怖体験を話していた。
たしかにいつも考えごとをしながら運転しているし、会長諸氏からよく電話がかかってくる。話している間は電話の内容に集中するから、運転に注意がいかないことが起こり得る。といっても曲がるべき道を直進してしまう程度のことだ。失敗したら元の方向に戻ればいい。高速で下りるインターチェンジを通り越したときには、戻るのに時間がかかるが・・・。その瞬間は、電話の話に集中している。
隣に乗っている家内から、「違う、左、左!」といわれることがある。左、左って怒鳴るなよ、ボクシングのトレーナーじゃあるまいし。
だから、車で30分以上の長い距離は、家内が暇なときは運転してもらい、後でパソコンを打ったり、本を読んでいる。だが、ときどき無性に地方の長い道を運転したくなるときがある。
ちょうどそんな気分のとき、18古河ジムの長嶋会長から下田の黒船祭り興行に夫婦で一泊旅行に来るよう誘われた。強引で、「来なかったら、今後、つき合いしない」という。苦笑して招待を受けたが、伊豆を自分で運転することに興味を持った。
往路は家内が運転し、後でパソコンを叩き、あとは本を読んでいた。昼ごろに下田の手前に着き、道沿いの魚料理店に入った。壁にワタナベジムの河野選手などの寄せ書きが貼ってあった。この辺りで合宿をしたらしい。
興行の翌朝、宿を出てマシュー・ペリーの記念碑を見に行った。旅に出る前にちょっと予習をした。「ジャパンクロニック 日本全史」(講談社)によれば、ペリーが浦賀に来たのは1853年6月3日で幕府を威嚇して米国大統領の国書を押し付けて去った。翌年3月3日、日米和親条約(神奈川条約)が結ばれ、下田、函館の2港が開港。5月25日、下田で下田条約(日米和親条約付録)が結ばれた。
石碑の英文を読んでいたら、妙な感慨につつまれた。下田開港の1854年からまだ153年しか経っていない。世界史上こんな短い期間で、日本はこんな国になったのか、と思った。来る前、猪瀬直樹「黒船の世紀」の最初の部分も再読した。黒船の襲来を受け、日本側が右往左往する様子が書かれている。
帰りは私が運転。下田を出たのが宿をチェックアウトしてから2時間後だから、結構そこにいたことになる。ペリーが通った石畳も歩き、ベンチに腰かけ海を眺めていた。家内は下田で有名な干物屋でいろいろ買っていた。
伊豆半島を北上し、熱海を通って帰った。4時間ほどだった。途中、干物屋ばかり。まさに干物街道だ。途中、眠くなり、道沿いの喫茶店に入った。「ピーターパン」という店で、トイレが非常にきれいだった。
ときどき長距離を運転しなければいけない。さもないと運転するのが億劫になる。本やパソコンを見ず、車の前の景色を見ていると、目の保養になる。下田生まれの長嶋会長、今回のご招待に感謝しています。
(7−7−07)