私が東京に出てきたのは28歳のときだ。務めていた会社(当時6万人も社員がいた)がイラクの大きなプラントを受注し、社運をかけた大事業となった。独身の中堅エンジニアがイラク部隊として東京に集められた。
大きな会社というのは子供じみた管理規則で社員を縛る。故郷の神戸にもどり、教師でもなろうか、とも考えていた。単にもっと自由が欲しかっただけかもしれない。しかし、その会社に勤め続ければ、一生食うには困らない。迷っていた頃、東京に転勤になった。
もっと若い頃に東京にいなくてよかった、と思った。こんな誘惑の多い街で学生時代を過ごせば、きっと勉強などできなかっただろう。映画を見たり、美術館めぐりばかりし、あるいは女でしくじっていたかもしれない。若さゆえの恥はもうかいてから東京に来た。その点だけはよかったかもしれない。
イラクへ5年も行かなくてはならない。ロンドン、パリ、ニューヨークなら5年行ってもいいだろうが、砂漠の中の何もない工事現場へ5年も行くのか。私が好きなのは、ボクシングを見ることと本を読むこと(あるいは本を貯めること)だ。それのない生活に耐えねばならない。砂漠に本屋やボクシングの会場はないだろう。私はコンスタントにボクシングを見ないと禁断症状が起きる中毒症だ。
仕事は地方にいるときより楽だった。残業もそれほどない。会社は6時の後楽園ホール第1
試合に間に合う距離にあった。4回戦の第1試合からすべてのカードを見た。神戸ジムのトレーナーのライセンスを持っていたし、当時はオーナー、マネジャーのみ入場可などの規制がなかったから。
イラクへの建設資材発送のため、よく横浜へ検査に行った。退屈な仕事だった。検査の合間、海を眺めていた。私は神戸の浜っ子なので、海さえ見ていれば気がおさまるところがある。早めに検査が終わると、帰りに阪東橋だったか、河合ジムに寄った。練習を見せてもらい、河合会長と話して帰る。
河合ジムの選手は会長自身がフットワーカーだったので、みんな足を使う。会長にこうすればもっとよくなるとか話をした。「ひとつアドバイスしていいですか」と会長にいった。「どうぞ教えてやってください」といわれ、あるボクサーに助言した。それが吉田秀三選手だった。
私は30歳ごろだった。吉田選手は体の割りにリーチが長く、ミットを持つと非常にパンチがあった。もっと打ち抜け、と助言した。あれほどまでにフットワークを使って体を浮かさず、もっと積極的に強打を打ち込んでは動くボクシングをすれば、さらに強くなっていただろう。あれは友成光戦の前だったのではないか。当分、横浜出張がないので、別れ際にいった。「君は非常にパンチがある。自信を持て」と。
その吉田、友成戦を見に行った。吉田は先にダウンを奪われたが、打ち抜く右ストレートで逆転KOした。試合後、客席にいた私に彼は挨拶にきた。「言ったとおりだろう。君の右は強い。自信を持てよ」といった。傍らに結婚したばかりの前の女房がいて、「礼儀正しい青年ね」と感心していた。ということは、もうイラクに行く必要がなくなり、それで見合いをして身をかためた頃だった。
河合会長の試合はよく憶えている。私はこの50年間に見た試合はどれも頭に引き出しに入っている。どんなパンチでくずして、どんなパンチで倒したか、そのパターンがいろいろ引き出しに入っている。河合会長の試合では、ジョー・メデル戦、エルネスト・ミランダ戦、ロニー・ジョーンズ戦、関光徳戦などいまも明瞭に想い浮かぶ。パンチこそないが、クレバーでスピードのあるフットワーカーだった。
ジムの会長として、花形進会長を世界チャンピオンに導いた。高田次郎、窪倉和嘉などという選手もいた。伊波正春も河合会長の選手だった。
河合会長は子供のころから進駐軍の慰問のためベビーボクサーとしてリングに上がっていたそうだ。昔の選手(スピーディ章とか矢島栄次郎とか)の裏話を聞かせてもらった。私とは8つ違いだが、ボクシングで観戦歴で10年違うと大人と子供のような面がある。河合会長の観戦歴60年、私は50年。もっといろんな話を聞いておきたかった。河合会長の冥福を祈る。合掌。
左の3段打ちを散歩しながらいろいろ試していたら、ちょっとメモをとりたくなった。
(1) ジャブージャブージャブ
筋力がないと、3つめのジャブは押し気味になる。スナップをきかせて3つまとめて打つ。あるいは、最初の2つを軽く、3つ目を強く打つ。ジャブを強く打つには、コブシを握るか、踏み込みを効かすか、意識的に肩を入れるかだ。
(2) ジャブージャブー左フック(顔面)
ジャブを2つ出したとき、相手の反応が問題だ。相手がダッキングで入ってきたとき、左フックを返す。弱―弱―強で打つ。スマッシュ(左フックと左アッパーの中間)で打つと効果的な場合がある。
(3) ジャブー左アッパー(腹)ー左フック(顔面)
これも打ちやすい。ジャブで相手が右ガードを上げる。わき腹があく。すぐ左アッパーから左フック。弱―中―強。
(4) ジャブー左フック(顔面)−左アッパー(顔面)
メキシカンがこれを打つが、打ち慣れると最後の左アッパーが効果的。前に伸びるように打つと、結構長い距離からでもこの左アッパーが当る。左アッパーを打つとき、あごを引く。
(5) ジャブー左フック(顔面)−左フック(顔面)
これは左フックのダブルだが、相手の右ガードが甘い場合に当る。ジャブで相手のガードを前に出し、すぐ顔の側面に左フックをダブルで当てる。
(6) 左フック(顔面)−左フック(顔面)−左アッパー(顔面)
相手がサウスポーの場合、左フックでリードし、最後に左アッパー。相手がボディワークを使う場合、左フックをダブらず、左フック1発ー左アッパーの方が効果的な場合がある。
(7) ジャブー左フック(顔面)−左フック(腹)
ジャブと強い左フックで相手のガードを上げておいて、すぐ左フックをわき腹。前に伸びる左フックを打たなければいけない。
(8) ジャブー右シフトー左フック(顔面)−左アッパー(腹または顔面)
相手がロープにつまり、両手で顔面をカバーしている場合、ジャブで相手のグローブを打ち、すぐ右足を前に出し、左フックでガードの間を打ち、左アッパーをみぞおちへ。この左アッパーは顔面でもいい。相手の上体の傾き方しだいだ。
(9) ジャブージャブー左サイドステップー左フック(顔面)
矢尾板さんは左フックを左にステップして打っていた。ダブルのジャブで相手に右手でパーリーか、ストップさせる。すぐ左にステップしながら、左フック。
(10)ジャブー左アッパー(顔面)−左フック(顔面)
これはミットでは打ちやすいが、実戦であまり当らない。なぜだろう。相手がよほど潜りこんでくる小柄なファイタータイプでないと、ジャブー左アッパーを打つ機会がない。左アッパーを打つと、相手の右ショートが来る。ただし、あごの締めが甘い相手が入ってきたら、このジャブ(フェイント)から左アッパーが当る。そのあと、左アッパーをダブるか、左フックに切り替えて3つ目を打つ。
ジャブでボディを打つパターンを加えると、もっとバリエーションができる。
(4−19−07)
朝起きて泳ぎに行こうと思ったら、外は雨。異常気象で非常に寒そうだ。来週の月曜はランディの防衛戦が大阪であるのに、風邪でも引いたらよくない。散歩がてら本屋に行くことにした。
朝刊で見た、戸塚宏「本能の力」と「人生の鍛錬 小林秀雄の言葉」(ともに新潮選書)を買いに行った。途中、書道の本を扱っている古書店に寄る。
買ったのは、
日本の美術別巻「書」(こんないい本が600円だった)
盛田昭夫「MADE IN JAPAN」(200円)
東山魁夷「日本の美を求めて」(280円)この画家は私の高校の先輩
世阿弥「風姿花伝」(180円)新品だった
「なぜアメリカはこんなに戦争をするのか」(200円)
目的の新刊書店では、
戸塚宏「本能の力」
「人生の鍛錬 小林秀雄の言葉」
星新一「人民は弱し 官吏は強し」この著者の伝記を読んだから
加島祥造「老子までの道」この人(英米文学者)はこんなものを書くようになったのか
「日韓英 韓日英辞典」(2,000円)
先週の木曜だったか、珍しく会社を休んだ。3週間ずっと土日曜なく仕事をしていたので一寸疲れた。本を読みたくなった。
吉村昭「破獄」途中まで読んでいたのを読了
中田整一「盗聴 二・二六事件」
鳥飼玖美子「歴史をかえた誤訳」
志賀直哉「城の崎にて・小僧の神様」この日はこれを途中まで読んで寝てしまった。
私の父親は二・二六事件のあと近衛兵になった。当時の皇太子(いまの天皇)の護衛なのだが、英国のバッキンガム宮殿にいるようなボディガードだ、と私が子供の頃、思っていた。二・二六事件が起こったとき、昭和天皇は怒りのあまりこういったそうだ。
「朕自ら近衛師団を率ひ、此が鎮定に当らん」と。
近衛兵というのは軍事訓練もしていたのだ、と認識を改めさせられた。中学生の頃、父に二・二六事件のことを訊いたが、話をそらせ教えてくれなかった。近衛兵時代のことはなぜか話したがらなかった。自分の中に想い出を留めておきたかったのだろう。「お前らに話してもわからん」と思っていたのかもしれない。
だからというわけではないが、二・二六事件に関するものは結構読んだ。松本清張のものはほとんど読んだ。他の本も読んだな。今度、書庫に二・二六事件関連の棚を作ろう。
日曜、パッキャオーソリス、アルセーミハレス戦などの生中継に対する解説をしたあと、外に出ていた家内(車)と銀座で合流して、八重洲ブックセンターへ行った。加藤周一「日本文化における時間と空間」を求めにだ。5軒書店を回ってどこにもなかった。さすが大書店だ、その本はあった。加藤周一コーナーがあり、私が最近この人の本を読まなくなってから随分多く本を出している。その主だったものを購入。
「日本的ということ」
「現代はどういう時代か」
「国民的記憶を問う」
「ことばと芸術」
「歴史の分岐点に立って」
「過客問答」
「同時代とは何か」
「常識と非常識」
「高原好日」
「私にとっての二十世紀」
「教養の再生のために 危機の時代の想像力」
加藤周一を読まなくなったのは、この人のいうことについていけなくなったからだ。いっていることがよく分からない。それは私が本を読むことを自発的に減らした時期からだ。もっと目の前の現実をよく見て、自分の頭で考えてみよう、と考え出した。そう考えると、娯楽のため以外では、それほど本を読む必要がない。ボクシング評論家という仕事がら氾濫する情報は読まねばならないが、それは読書とは別ものだ。「リング」誌や「BOXING NEWS」を読むのは自分の中では読書とは切り離している。
加藤周一の棚も作ろう。この人の本はほとんどすべて持っている。50冊以上あるはずだ。いま読み直すと、きっと印象が違うだろう。もうすぐ90歳だが、元気だな。
世の中に、本を読まない賢い人はたくさんいる。たとえば、広い意味での職人がそうだ。自分の仕事の中から人生の要領、こつ、エッセンスを持っていることがある。それは貴重だ。そう思うと、マッチメーキングの雑用を処理しながらでも、その中に叡智を見出せる。
私は読んだ本からだらだら引用するのが、基本的にはあまり好きではない。「じゃ、お前の考えかたはどうなんだ?」と問いかけたくなる。誰それが何々いっている、書いているとして、それで本(売文)になるなら苦労はなかろう。私はその種の本は嫌いだ。自分自身で創造するか加工しなければ、そして独自性がなければ、本として売り物にはならないのでは?
こうしてしばらく本を読むことに浸り、そしてまたしばらく本を読むことから離れるのだろう。大事な世界タイトルマッチになると朝から晩まで忙殺されるから本を読むどころではなくなる。それはそれでいい。目の前の現実から何かを受け取ればいいことだ。
(4−18−07)
3月末、WOWOWの女性アナウンサー、土肥さんの送別会があった。場所は丸の内の某イタリア・レストラン。スタッフが集まり、彼女を送った。土肥さんは着物を着て現れた。私は家内同伴。
和気藹々で、楽しいディナーになった。仲間内だから、茶化したり、ジョークを言い合ったり。土肥さんからもうちょっと九州弁を習いたかったな。「バッテン」のニュアンスは彼女に教えてもらった。「さりながら」、「しかるに」という意味らしい。英語でいえば「however」、スペイン語では「sin embargo」にあたる、と思う。
前日、色紙に送る言葉を毛筆で書く予定だった。色紙がないのに気づいたのは、会社から帰ったあと。夜10時すぎ、車で付近のコンビニを回ったが、ない。コンビニでは色紙は売らないものらしい、と気づいた。
翌朝、つまり送別会当日の朝、私が墨を磨っている間に家内が色紙を五枚買ってきた。書き損じがあるだろうから、五枚頼んだ。ところが一枚目で結構うまく書けた。
土肥ゆきよ様
しんどい
ときも
頑張って
ゆきよ
ジョー小泉
ジョーク小泉とサインしたかったが、それでは悪ふざけに見える。だから真面目に書いた。本当は変体かなを使い、「い」を「伊」で、「よ」を「代」で置き換え、凝りたかったが、相手が読めないと、送る言葉にならない。だから、普通の字で書いた。
色紙には、白い面と金粉をまぶした面がある。筆で書く前、家内と議論になった。どちらの面に書くべきかについてだ。私は書道のかな文字の作品を見ているから、当然、金粉の面に書くのだ、と思っていた。家内は、それは違う、白い面に書くのだ、と言い張る。ときに私もサインを頼まれることがあるが、そういえばいつも白地にサインを求められるな。
土肥さんには金粉の面に書いたが、色紙にサインをし慣れている浜田氏に今度聞いてみよう。土肥さんの今後の活躍を祈る。
(4−5−07)