クロアチアの第44回WBC総会から帰国した。徒然(つれづれ)なるままに旅行記を書いてみたい。
10月29日、午前11時40分成田を発ちウィーン着(所要時間12時間半)、乗り継いでクロアチアの首都ザグレブ着(1時間)、また乗り換えて目的地のドゥブロニク着(55分)が現地の9時40分。これは日本時間に換算すると、時差8時間で、29時40分だから、計18時間かかったことになる。まだ近い方だ。アメリカや中南米からの出席者は24時間以上要したという。
空港にWBCからの迎えが来ていて、日本からの6名はバスに乗った。真っ暗闇の中を10分ばかり走り、ホテル・クロアチアに到着。さすが500名近い出席者を収容するだけあって大きなホテルだ。玄関で1日早く到着していた本田会長に会う。「みんな元気そうなのに、ジョーさんだけ疲れた顔をしている」といわれた。
私は11月、12月の試合の手配、世界チャンピオンたちのスパーリングパートナー招請を片付けてから出発したので、離日前の2日間は寝不足だ。機内で4時間眠ったが、寝返りが打てないためか、睡眠効率が悪い。いつもながら働きすぎだ。何でもマッチメーキングの詳細まで頭に入れておきたいので、負荷が大きくなる。それは分かっている。いつまでも若くないのだから、仕事の仕方を変えなければいけない。だが、それができない。いつも無理をしている。
もうすぐ年末だが、今年を振り返ると、暇さえあれば習字ばかりしていた。一時期、朝2、3時間、夜寝る前、また1、2時間習字をしていた。それだけ習字に熱中すると、仕事に差しつかえる。それはよくないから、むきになって仕事もきちんと消化する。当然、睡眠不足になり、生活に無理がでてくる。だから、7月にランディ・スイコが米国で世界戦をした前後、まる1ヵ月半書道から離れた。書道は趣味のレベルに留めねばならない、と自戒した。酒や女やギャンブルに溺れる人がいる。書道に溺れるのもよくない。本末を転倒してはいけない。書道家でなく職業人なのだから。
悲しいかな、書道を始めるのが遅すぎた。いまの生活の中に書道を組み込むペースなら、目標まであと30年以上かかる。目標とはすべての字を5種類の書体(少なくとも楷行草書)で自在に書けるようになることだ。私が師事する徳村旭厳先生は今年、日展に入賞した前途有望な書道家で、歳は私より若い。高校の書道の先生で、仕事柄、年から年中、筆をとる生活をされているのだろう、と羨ましく思う。徳村先生の師が田岡正堂先生で、その系列をさかのぼると金子鴎亭という有名な書家に行きつく。「墨」という書道専門誌に「金子鴎亭特集」という最新号があり、徳村先生に送っていただいた。
その中に、鴎亭先生の次の言葉があり衝撃を受けた。「僕は骨格が変形するくらい勉強した」という。若い頃から素質のある人がそれくらい修行しないとものにならない世界だ。私のように60歳前から急に学び始めても、行き着く水準はしれている。あと何年生きられるか分からないし――。
何かを知りたいと思い、それについて学ぼうとする。本を読む。分からないところが出てくる。考えるが、分からない。辞書、百科事典、他の類書、サーチエンジンを引くが分からない。若い頃なら、もっと執着心が強く、徹底的に調べ、自分なりに納得がいく回答を出した。しかし、最近は「もう面倒だ。これが分からなくてもいいだろう」と妥協することがある。その分野に大家はいるが、知己はない。それを求め、教えを乞いに行くのも面倒だ。結局、未解決のまま自分の中で消化不良のままとなる。
ものを訊くべき師がいない、というのは辛い。しかし、私は学者ではない。一介の独学者にすぎない。しかも何もかも中途半端だ。あれやこれや分野を広げすぎたからだ。たかがボクシング・ライター、マッチメーカーだ。それほど頑張らなくても仕事を消化する程度の知識はあるが、何か目標を持って自分の能力を高めたい。
もっと賢い人間になりたいとは思うが、それは他人との比較ではない。昨日の自分よりちょっとは進歩したい、と思うだけだ。だから、外国語を読み、辞書を引き、地道に単語を増やす。それをもう40年近く続けているが、その結果がいまの自分のレベルでしかない。多分、頭が悪いのだろう。もっと机に向かう時間を増やすべきだったかもしれない。だが、仕事には社会的責任があり、それを放置して勉強ばかりすることはできない。社会人であり職業人なのだから、何よりも仕事を優先させねばならない。限られた時間内で勉強することにむきになるから楽しんでいない。だから、賢くなれない。ボクシングでもそうだ。本当に素質のある選手は楽にリラックスして自分の練習、試合の成果を楽しむことができる。歯を食いしばり我慢しながら練習するタイプは一流ではない。
ボクシングの世界には、ラファエル・メンドサというアドバイザーがいる。私より15歳くらい上だが、一流のマッチメーカーで、あくが強い。困ったときは、教えを乞う。ラファエルは成功したマッチメーカーだ。運もよかったのだろうが、いまは富と名声を手にし、仕事を楽しんでいる。彼はいま大きな仕事しかしない。ラファエルのような存在を持つことに意味がある。だから私はラファエルに反発を覚えることがあっても、敬意を払うことを忘れない。彼はライバルではない。師匠だ。意図的に自分の中でラファエルを師匠に置くことで、本を読んでいて疑問の箇所に遭遇したときのようなフラストレーション(焦燥感)がなくなる。それは私がマッチメーカーとして生きるうえで非常に有難いことだ。
中島敦に「名人伝」という掌編があり、ときどき無性に読みたくなる。自宅に文庫本があるのに、旅先の本屋で薄い文庫本をまた求める。だから、中島敦の本は同じものが数冊ある。「方丈記」もそのたぐいで、名古屋で買ったもの、大阪で求めたものと数冊ある。食事と一緒で、食べたいと思うのは体が要求しているせいで、その本を読みたいと思うのは心がそれを必要としているということだろう。だから旅先で持っている本をまた買ってしまう。ラファエルと私の関係はその「名人伝」の師弟のような雰囲気がないではない。
書道において徳村先生の添削、指示を忠実に守る。何度もその教え通り繰り返し書き直す。疑問点について教えてくれる人、すなわち師がいることがどんなに有難いことか。確かに単に字を書くのが上手くなりたければ、もっと効率的な方法がある。それは週に一度か二度、書道教室に通い、先生の前で書き、直に添削してもらうことだ。しかし、マッチメーカーの仕事をし、地方や海外に出張することが多い生活では、それはできない。自分なりに書き、それを徳村先生に直していただくいまの通信教育が、進歩は遅くとも自分の生活パターンには合っている。
1日も休まず、習字ができればと思う。さもなければ、ただでさえ晩学だ。腕が落ちる。指や手が硬くなる。だから旅に出ても、筆ペンを携え、機内で配られた英字新聞の上に書く。いつも旅に出るとき、鞄には楷書の「九成宮」と行書の「蘭亭序」の手本を入れてある。手で書けないときは目で追う。それを書道では「目習い」という。ともに100回は臨書をしよう、と思う。私のような晩学の士は素質のある人の倍は練習しないといけない。100回を達成したら、1000回を目指す。
そんなに書道にのめり込んだら、本を書けなくなるだろう、と自問自答をする。最近、やっとちょっとはましな英文が書けるようになってきた。だから最近、ボクシング界への国際的提言をFIGHTNEWSに書き始めた。「現行10点法への懐疑 10-10の再評価 Skepticism on the current 10-point must system」、「レフェリーの減点再考 On Referee’s Penalization」、「レフェリーのミスへの対処 On Correction of Referee’s Mistake」などだ。17歳で「リング」誌に書き始めて、もう40年余りだ。その間、自分なりに英語を書くことを工夫しながら勉強してきた。もっと語彙を増やしたい。もっといろんな表現を自在に操る文章力が要る。いずれいい英文で著作を残したい。その著作に10年かかるとしたら、もう始めないといけない。しかし、いまは書道ばかりしている。その著作に着手することから逃避しているのかもしれない。著作と書道とどちらが大事だ?
東洋人として生まれ、書道をし、いま並行して漢文を復習している。もちろん独学だ。高校時代、漢文が好きだったが、大学時代、サラリーマン時代、漢文を読むことから離れた。脱サラをしてマッチメーカーになってからは、もっと離れた。それをいま再び勉強している。それが済めば、中国語を勉強し直す。それが済めば、書に添える水墨画を学びたい。
クロアチアのドゥブロブニクというのは美しい街だ。「この世でパラダイス(楽園)を見たいものは、ドゥブロブニクを訪れるべきである」とバーナード・ショーがいったほどだ。「この街の産業は?」と訊くと、「観光だ」と現地のWBC総会専属ガイド、ハリーが答えた。総会初日に旧市街(世界遺産らしい)までバスで昼食に出かけた。ドゥブロバキ・シュトラドゥムという名の大通りがあり、東京の銀座のような場所らしい。路は石づくりで、艶が出るほど磨かれていた。
ガイドブックを見ると、「ドゥブロブニクは芸術がもたらした賜物によって作られた都市というだけでなく何世紀も経たという時の賜物によって作られた都市である」と書いてある。街へ出たのは初日の昼食時だけ。あとは朝から夕方まで会議に出ていた。何も見られなかった。しかも陽が落ちるのが早く、夕方5時半になるともう暗闇に近くなる。これでは会議が終わってから景色を見に出られない。
折角、世界的名所に足を運びながら会議、会議で全然その地を見なければ、時の浪費ではないのか。しかし、会議の最初から最後まで、すべて私の仕事と関係がある内容ばかりだ。医学的報告、レフェリー・ジャッジの採点基準などを論議する分科会、最近はWBC総会期間中に開催されるOPBF総会、世界ランキング発表、指名防衛戦の確認など。ある1日は会議を休み、観光に出るというわけにはいかない。ドゥブロブニクがこんなにきれいな街なら、1日早く来て総会の開会前に観光しておくのも手だった。だが現実には日本をあける日数、すなわち旅程を減らさないと、マッチメーキングのもろもろの処理が滞る。その観光のための余分の1日が生み出せない。
9月末、東京におけるWBA総会で「レフェリーの減点」について講演をした。早朝、後楽園ホールで実際にリングを使い、オフィシャルたちが問題となる場面のレフェリーイングを実演し討議した。そのあと、急に「明日予定のスピーチをここで済ました方がいい。明日はオフィシャルが東京見物にでかけたりするから、これだけの人数が揃わない」とヒルベルト・ヘススWBA事務局長(メンドサ会長のジュニア)にいわれた。彼にスペイン語訳をチェックしてもらい、かなり直されたあとだったので、もう一度声を出して練習したかったが、敢えてその指示を受けた。
私の最近のモットーは、不完全な状態でもいい結果を出そうと努めることだ。完璧に準備していい結果が出るのは当たり前のことだ。そうではなく、ハンディを背負っても勝つ、いい仕事をする、目標を達成する。そこにマチスモ(Machismo男らしさ)がある。男の世界に言い訳はない(その割には結果論とか言い訳とか、あとで考えると結構いっているのだが、それはよくない。男らしくない。それを自分の中だけに留めるようにしなければいけない)。
東京のWBA総会での講演の出来はまあまあ。英語で1フレーズ読み、その部分をスペイン語で読む。途中、携帯を切るのを忘れていて、家内から電話がかかり、あわてて携帯を取り出そうとしてそれを落とした。後楽園ホールのリングの上でだ。ちょっと格好が悪かったが、そんなことに構っていられない。私は、ミスター・ドンマイだ。起こってしまったことは、言っても仕方がない。それなら言う必要がない。ともかくスピーチを終えた。
そのWBA総会でのスピーチ現行をウェブサイトのFIGHTNEWSに出したところ、WBCオフィシャル分科会の幹事、ハワイのヒューバート・ミン氏より「同じ内容の講演をWBC総会でもしてほしい」という依頼があった。「同じ内容の講演をするのは気が進まない。もうひとつ別の講演、というかみんなの意見を訊きたいテーマがある。許されるなら、それをしたい」と答えた。
総会3日目の午後2時半から、オフィシャル分科会とOPBF総会が重なった。OPBF総会では言いたいことがあったので、これを優先。よく喋ったので、独演会のような格好になった。それが終わった4時からオフィシャル分科会に回った。私の顔を見たミン氏は壇上に招き、講演の機会を作ってくれた。英語だけだったので比較的楽だった。
講演の主旨は、「レフェリーが明らかなスリップをノックダウンとミスジャッジをし、ジャッジがそれに同意しなければ、強制的に3者とも10−8をつける必要はないのではないか。むしろ3名のジャッジが各自の見解で採点してはどうだろう」というものだ。聴衆の中の3名のジャッジが発言し、1人は私の投げかけに肯定的で、あと2名は否定的だった。その講演内容をFIGHTNEWSに送り、それは掲載された。これは国際的世論を刺激したようで、FIGHTNEWS経由、賛否両論が私に寄せられた。この方向に進めば、世界のボクシング界における東洋の論客になれるかもしれない。東洋から異論反論オブジェクションを送ってくる男として興味を持たれるかな。
OPBFに中国の参加が決まった。中国の代表団と話をした。「書聖、王義之を知っていますよね」と紙にこの書の神様の名を書く。「中国語では何というのですか」と問うと、「ワンシーズーと発音します」と教えてくれた。「私のこの旅先でも毎日少し王義之の手本を見ながら字の練習をしています」というと、彼らは驚いていた。漢字文化圏で書を巧みに書けると敬意を持たれる、と思う(私はまだまだだが)。
連日、夕方まで会議。夜はディナー(といっても立食パーティーだが)。それでも自分の時間は多少ある。夜、本を読み、習字をした。今回ほど会場のホテル周辺以外どこにも出なかった総会参加は珍しい。
11月2日、総会はまだ残っているが、7日の高山、メロ戦準備のため、1日早く帰国。朝5時過ぎにホテルを出て、6時40分の国内線で首都ザグレブまで飛ぶ予定だった。ところが暴風雨で、飛行機は欠航。これだけ強い風が吹くと、このローカル空港では離陸するための滑走路の距離が足りないそうだ。
総会場にもどるか。他の便で帰国するか。まさにポセイドン・アドベンチャーのような選択を迫られた。明日のこの便は満杯。スケジュールをそのまま1日延ばすことは不可。延ばすなら2日間になる。明後日ここを出るとWOWOWの日曜の解説に間に合わない。カウンターで相談すると、次の案を提示してくれた。「どうしても今日帰りたいのなら、バスを用意するから隣の空港スプリットまで行き、そこでザグレブ行きに乗ればいい」という。ただし4時間くらいかかるという。結局その方法に決めた。すぐ空港からまだホテルにいる本田会長に電話。「どうしても今日帰国するなら、ホテルからザグレブまでタクシーをとばすしか方法がありませんよ」と説明。会長はいろんな帰国法をチェックしたうえ、結局そのタクシーに乗る方法でスプリットへ向けすぐ飛び出したそうだ。
クロアチアの美しい海岸線を眺めていたら、バスの中で睡魔に襲われた。トイレ休憩で起こされ、またバスに戻り、スプリットに着いたのはドゥブロブニクを出てから4時間半後。バスには日本人の団体が同乗し、まるで日本の観光バスに乗っているみたい。荷物を降ろしていたら、タクシーでちょうど到着した本田会長と会った。何という偶然か。挨拶もそこそこに私は先に出るザグレブ行きに飛び乗った。会長はもっとあとのフランクフルト行きで、そこから日本への帰国便に接続できるそうだ。
ザグレブに一泊するつもりだったが、聞いてみると次の乗り換え地オーストリアのウィーンまでの便があるという。このように天候が不順なら、ちょっとでも前に進んでおく方がいいだろう。ウィーン空港の観光案内所で適当なホテルを予約してもらい、そこまでタクシー。ウィーン発成田行きは明日の午後1時40分発だ。ウィーンで20時間ばかりある。
30年ほど前にウィーンへ観光に来たことがあるが、まるで記憶にない。ホテルにチャックインしたあと、タクシーでダウンタウンまで出た。日本の銀座のようなケルントナーシュトラーゼ通りまで行き、街並みを眺めつつ歩いた。あるレストランに入り、赤ワインとウィンナー・シュニッツエルを注文した。オーストリアで使われているのはドイツ語だ。ホテルに戻り、インターネットでマッチメーキングのフォロー。夜中の1時半くらいまで仕事をしていた。マッチメーキングというのは生き物だから、日々変化し進展する。総会中も朝と夜は事務所と連絡をとっていた。それでも「それは私が帰ってからでいいだろう」という、いわば積み残し、後まわしの課題がいろいろある。それを消化するためにも早く帰りたい。
翌朝朝食後、9時半からタクシーで2時間市内観光し、11時半に空港に着くプランでホテルの観光オフィスに手配を頼んだ。映画の「第三の男」に出てくる観覧車を見たくなったので、それをコースに入れるよう頼んだ。街中にいろんな遺跡があり、観光タクシーの運転手がマリア・テレジアやマリー・アントワネットの名前を出し荘厳な建物について説明する。まるで世界史の復習をしているようだ。
「第三の男」の中にジョセフ・コットンが演じるアメリカからウィーンに旧友を訪ねてきた西部劇作家が出てくる。彼はある文化的な講演会に招かれる。作家というから高尚なテーマについて(たとえばプルーストの意識の流れについて)質問されるが、三文小説作家だから、そんな質問に答えられない。聴衆は失望して1人、2人と席を立つ。あのシーンが一番おもしろかった。何度見ても自分(ボクシング・ライター)をあの三文小説作家に重ね合わせてしまう。
ウィーンの街でふと土産物店に入った。モーツアルトづくしだ。モーツアルト・チョコ、モーツアルト・カップ、モーツアルト・Tシャツ(クラシックファンのドクター山田に1枚買った)など、いわばキャラクターグッズが氾濫。モーツアルトはウィーンのどらえもんだな。
ウィーンから成田への便に乗り、JBCの安河内局長、森田さん、金谷さんなど1日遅れてドゥブロニクを出た人たちと合流。向こうが驚いていた。「昨日帰ったんじゃなかったの」と森田さんに問われて、暴風雨のため飛行機が欠航になり、結局ウィーンに一泊した経緯を話す。
機内で2本映画を見た。「ルチャ・リブレ」と「プラダを着た悪魔」だ。右目でメキシカン・プロレスラーのコメディ、左目で隣の席の人が見ているアメリカ版おしん(頑張り娘の話)を見た。音はリモコンでときどき切り替えた。「プラダ」の方はおもしろかったが、「ルチャ」の方は結構くだらなかった。
薄暗い機内で本を長く読むと眼にわるい。だから、映画のあと、機内でもらったウォールストリートジャーナルの上に、筆ペンで王義之の蘭亭序を臨書していた。
日本に帰ったらボクシングが好きでたまらなかった初心を忘れず、もっと性根(しょうね)をすえて仕事をしよう。仕事第一、書道は第二、第三は水泳かな。帰ったら、マフラーをして泳ぎに行こう。
(11−4−06)