ジョー小泉のひとりごと 2005年10月


夕食は夜1時

夜9時すぎ、みんなが帰り支度をしかける前、電話があった。
月曜、急にイーグル、中島戦の発表をするから資料を用意してほしい、と。
まいったな。スタッフは時間が許すまで頑張ってくれたが、1人、2人と
帰っていく。

最後は私ひとりになり、12時半やっと終わった。
それを25部コピーして、明日後楽園飯店あてに送る。
明日してもいい仕事をなぜ今日すませたかったか?
明日はスペイン語の原稿を添削を織り込み修正したかったからだ。

帰宅し、夕食は夜1時からだが、もう食欲があまりない。
こんなに夜おそくたくさん食べるべきでない。
一杯飲んで軽くつまみをとり、それで終わり。
多く食べたければ、明日食べればいい。夜おそく過食すると
体脂肪がつく。我慢。

11月は13カード、29試合もある。
まだ決まっていないのが3試合。韓国に出るまでには決めておきたい。
今週は忙しかったな。
(10−28−05)


スペイン語原稿は赤だらけ

午後2時から某ホテルで、WBAの関係者により総会でスピーチをするスペイン語の原稿をチェックしてもらった。丁寧に赤を入れてくれた。感謝。ここは我ながらいいな、と思っていた表現も直された。全体的に非常に格調高い、いい文章になり、主旨が明確になった。1時間程度で、言葉をチェックしてもらう程度に考えていたが、添削に時間をとってくれたので、終わったのは4時半ごろ。一旦、帰宅して急ぐマッチメーキングの仕事を30分くらい消化して、すぐホールへ飛び出す。

今日のB級トーナメント決勝のメインは壮絶な打撃戦だった。多分、10月のベスト・ファイトだろう。

亀田のスパーリング・パートナー2人のうち、もう1人を早く決め、WBA総会に行く前に招請手続きを終えたい。
(10−26−05)


WOWOW音入れ

今日は1本音入れで、午後1時スタジオ入りし、5時ごろには終わった。
ホールで試合(8回戦)があったが、ここ最近、急にマッチメーキングの依頼が増え、しかも急ぎの話ばかりだから、ホールへは行かず、事務所へ。
ギリギリまで日本人選手を探し、それが見つからずリング・ジャパンに頼んでくるから、時間がなくなる。しかも、「できるだけ早く相手を決めてほしい」といわれるから、急がねばならない。
事務所を出たのが、10時。会長さんと試合の話をするのも仕事なのだが、次から次へと電話が続き、事務作業がなかなか進まなかった。

より大事で急ぐ仕事から先にするので、一部が後回しになる。仕方がない。
(10−25−05)


また試合後、病院へ

今日、約1ヵ月入院していたアヨン・ナランホが帰国。
夜、セミの河野洋平にKOされたペッチダム(タイ)が試合後、CTを撮りに駿河台日大病院へ。
社員諸君が先に行き、私はメインが終わるや否や、病院に駆けつけた。
幸いにもCT、X線(アゴの骨折の疑いがあった)ともOKで無事だった。
タイから重要な電話がかかる予定なので、急いで帰宅。

もっとディフェンスをしっかり教えないと、今後も事故がなくならないのでは・・・。
(10−24−05)


スピーチをスペイン語に翻訳

明日の試合(河野vs.ペッチダム)の計量に行き、早々に帰った。
翻訳に時間をとりたかったからだ。

WBC総会で講演したものをWBA総会でもすることになった。
WBA審判委員長のガイ・ジュトラス氏(カナダ)に勧められた。
WBC総会は主として英語で行われるが、WBA総会はスペイン語だ。
「引き受けた。スピーチはスペイン語でする」といった。

先週、WBCのルールブックのスペイン語のものを読み返して語彙をチェックした。
今日、WBA総会まであと1週間なので、スピーチのスペイン語原稿を作成。
8割がたできた。ときに愛用の英西ー西英辞典を引き、原稿を作っていった。
出来上がり次第、ネイティブにチェックしてもらい、原稿を完成したら、
あとは暗記する。私は原稿の棒読みのような講演はしたくない。

自分でもいい度胸をしている、と思わないでもない。
こう思えばいい。
「いい機会が与えられたことに感謝する。がんばろう」と。

講演原稿を書いてみて、私のスペイン語(書く文章)は接続法がすぐ出てこない。
辞書の後の活用表でチェックしながらでないと、いい文章が書けない。
もっと勉強する余地がある。
そう自覚できたのも、こんな講演の機会が与えられたからだ。感謝。
総会のあるソウルへ行くのが楽しみになってきた。
「そうかい」
(10−23−05)


ボクシング・ジョーク集

浜田剛史氏が番宣(番組宣伝)をし、その後に私の一口ジョークの掛け軸(垂れ幕?)がかかるという企画ができた。そこで、ボクサーの名前でなく、ボクシング全般、あるいはWOWOWエキサイトマッチを織り込んだジョークをいくつか求められた。下記のようなジョークを考え、先週、和田さんに送った。
一体、どれが採用になったのやら?

僕シンク(考える)
ボクシングはおもしろい

エキサイトマッチ
快勝を見てストレス解消

強打者登場は
今日だ!

ヒーローも激戦終えて
疲労こんぱい

今日の駄ジャレ失敗
アイム小泉ソーリー

エキサイトマッチ
KOシーンまで一寸待っち

エキサイトマッチ
KO起こればマッチベター

月曜はパパ早く帰る
エキサイトマッチ

月曜は駅から早足
エキサイトマッチ

月曜8時エキサイトマッチ
壁に記載としよう

リングの激闘
セコンドはゲキをとばす

ジャブジャブは
洗濯でなくボクシング

ノックアウト見て気分爽快
ああ、そうかい

ダウン応酬
欧州でなく米国の試合

タイムリーオンエアーを
応援やー(関西弁)

斉藤さんも見る
エキサイトーマッチ

甲府の人も興奮する
エキサイトマッチ

駅でWOWOWのサイト見たら
今日はエキサイトマッチ
(10−22−05)


亀田の最後のスパーリングを見に行く

亀田選手のスパーリング・パートナー、WBCスーパーフライ級13位ヘルソン・ゲレロ(メキシコ)は私が呼んだ。今日が最後のスパーリングだから、協栄ジムに見に行った。記者諸氏がたくさん来ている。

亀田に結構打ちまくられている、と聞いたから、ゲレロに喝を入れた。「最後のスパーだから、しっかりやれ。さもないと、ゲレロは弱かった、といわれるぞ」と。4回消化したが、いいスパーだった。亀田はスピードがあり、体に力がある。ゲレロは、「パンチがあり、非常に攻撃的だ。経験を積めば、世界的な選手になる素質がある。まだ18歳というのに、強いのに驚いた」といっていた。

7時ごろ、ジムを出て、ゲレロと一緒にホールへ行き観戦。そのあと、東京ドームホテルで会食し、労をねぎらう。ゲレロのビジネス・マネジャーは私の兄貴分のラファエル・メンドサだから、「ラファエルはきっと世界タイトル挑戦のチャンスを作ってくれるから、頑張ってチャンピオンになれよ」と励ました。協栄ジムの前まで送り、それから帰宅。3日分のFIGHTNEWSレポートを書いた。毎日ホールへ行き、速報メールを書いて送り、それで1週間が終わったような感じ。
(10−21−05)


ナランホの退院手続きに行く

コミッションの安原検査部長から電話を受け、横浜労災病院へ行った。9月25日、ホルヘ・リナレスに負けたあと入院したアヨン・ナランホ(比国)の退院手続きについて山中医師より説明を受けた。本人とマネジャーに先生の説明を逐一通訳し、彼らの納得を得た。手術をせず、薬物治療で治癒できたのは幸だった。ナランホの元気な姿を見て安堵した。

明日の退院手続きについて詳細確認。病院の近くに泊まるラザリト・マネジャーのホテルの支払をし、明日のチェックアウトの手続きをした。

まだ7時前だ。ホールに間に合う。新横浜から新幹線に乗り、ホールまで30分。ちょうどセミファイナルが終わり、石井一太郎のメインが始まる直前だった。今週は月曜から金曜まで毎日、興行がある。連日、忙しい日々が続く。
(10−20−05)


ランディの敗戦のビデオを見る

帰国後、ランディがハウレギに2−0の判定負けをしたビデオが届いていたので、早速見た。現場でセコンドをしながら見た試合より、ビデオの方が見栄えがいい。

比国では試合の1週間後、(ランディはパッキャオに次ぐホープだから)放送があったという。キニト・ヘンソンのような高名なスポーツライターが、「96−94でランディの勝ちだ」と主張したコラムを書いた。

負けてるよ。97−93、あるいは96−94の負け。よくてドローだ。ランディの勝ちはない。しかし、後半5回はよく攻め込み、いい負け方だった。多分、アメリカのファンの記憶の隅に残っただろう。技術的課題が明確になった。

比国のマスコミに、「ジョー小泉のミスマッチメーキングだ。折角世界3位なのに、ランキングを落としにアメリカへ行って・・・」と批判される、と予想していた。「ランディは地元判定で負けた」という論調は、少なくとも私の責任追及には向かわなかったことになる。私はマスコミに(特に比国のマスコミに)どんなに批判、非難されてもこたえない精神構造になっているのだが(ルイシト事件で鍛えられた)。

9月25日のダブル世界戦のとき、比国のこれも高名なライター、リカ・トリニダッドが来日し、挨拶をしにきた。本田会長と話しているところだったので、「この男が私とルイシトの間を引き裂いた張本人だ。連日、あることないこと書きまく非難して・・・。そうだよなあ」と、リカに話しかけた。「ジョー、忘れろ」というから、腹が立ってきて、「私は忘れないよ、一生。お前、酒を飲まずに書けよ」と、このアル中の評判の高いライターにいった。

このあたりが私の大人気ないところで、ルイシト事件のあと、当時滅茶苦茶を書いたライターたちには一通り、直接対話をした。「お前、どうしてあんなことを書くんだよ」と個別に詰問した。反日感情の残る国で、マスコミにこんな敵対的態度をとるから評判が悪くなる。私はデマを書かれて泣き寝入りはしない。できるかぎり反論した。しかし、比国の新聞は30以上ある(セブ・ローカルの新聞を含め)。すべての新聞の記者にガンをつけるわけにはいかない。多勢に無勢。まるで坊ちゃんが布団の中にバッタ(いなご)を入れた学生たちに対するような収集のつかない状態になった。当時、私は若かったのだな、と思う。

外国人選手のマネジャーをして成功し続ければいいが、挫折すると叩かれる。そんなものを気にしていたら、神経がまいる。だから、いまは徹底的に無視する。誉められて喜ばず、けなされても動ぜず。最後に勝てばいいのだ。

よく試合後、負けた選手を叱っている場面を見る。だが、私は試合直後はあまり批判しない。負けて悔しい一念の選手にガミガミいっても、それは頭の中を素通りする。だから、いいたいことは沢山あったが、黙っていた。ビデオで再検討してからの方が、冷静な批判ができる。9月23日の試合から2週間経ち、練習を再開する前に、選手とトレーナーに特に重要な課題だけをEメールで送り、それから電話で話した。「元のコモン・バト(石のコブシ)スタイルに戻ろう」と。あとの課題は小出しにいう。いいたいことを抑えるのには辛抱がいるが・・・。
(10−10−05)


香港経由、帰国

金曜の総会最終日、その日の会議には出ず、朝チェックアウト。「きみもう帰るのか」という挨拶を受け、「帰国して、コラレス、カスティージョのTV解説があるんだ」と答えると、相手側は納得。

タクシーでスペインー英国の国境まで10分。そこからは、荷物を引っ張り徒歩5分。今年の総会はよくなかった。ホテルの400室のうち、250室しか完成しておらず、残りは他のホテルに分宿。JBC諸氏など会議のあったホテルから車で30分もかかる別のホテルに泊まらざるを得なかったそうだ。

ジブラルタルからロンドンまで2時間。ロンドンから香港まで12時間。香港から東京まで4時間。ヒースロー空港で時間があったので、いつものようにシーフード・レストランで白ワインを飲んだ。空腹でちょっとアルコールを入れ、機内では最初の食事をパスし、寝続けた。

夜8時すぎに成田空港に着き、一箇所知人の泊まるホテルに寄り、帰宅。あれだけ機中よく寝たのに、平らなベッドとなると、また熟睡。
(10−8−05)


指名防衛戦確認はスペイン語

各クラスの指名防衛戦、および指名挑戦者決定戦の確認は木曜日。ヘビー級から順番に降りていき、スーパーバンタム、バンタム、スーパーフライ、ミニマムは日本に関係のあるクラスだ。スーパーミドル級がもめ、各国のプロモーター、マネジャー、マッチメーカーたちが口角泡を飛ばして議論する。

下のクラスに行くほど、時間が短くなる。待っている間に、「スペイン語で話そう」と思った。普段、日本は米国文化圏だから、英語を使うことが多い。私のスペイン語は錆びだしている。というのは、WBCの資料など英語版とスペイン語版があるが、読む時間を省略するため、英語版を取ることが多い。最近、スペイン語を読んだり、話したりする機会が減っている。折角、スペインでの総会だから、スペイン語でいこう、と思った。しかも、出来るだけ長い時間喋ろう、と思った。

外国語を喋るというのは、持っているボキャビュラリー(語彙)で意思を伝達すればいい話だ。私の英語はジャパニーズ・イングリッシュだろうし、私のスペイン語は語彙が限定されたエスパニョール・ハポネスだろう。要は、意味が伝わればいいんだ。日本が世界大戦に勝ち、日本語を諸外国に強要できていれば、子孫の私たちがこれほど英語などの外国語を学ぶ必要はなかっただろう。しかし、日本は敗れた。外国との意思の疎通に、外国語(日本人から見て)を使わねばならない。

なぜアメリカみたいな巨大な国と交戦したのか、と歴史の本を読むたびに思う。もっと留学生や海外派遣団を諸外国に送り、大国の国力を把握していればよかったのに。だが、それをいっても始まらない。歴史は遡及できないのだから。フライ級の選手がヘビー級のボクサーと試合をするか? 日本対アメリカというのは、まさしくミスマッチだった。勝てるわけがない。戦争というのは4回戦でなく、無制限一本勝負だろう。日本が戦争に突入した必然性を書いた歴史書もあるが、のちの世代の私たちがどんなにひどい文化的影響を受けることになるか、戦時の指導者たちは想像すらしなかったのだろう。そこが愚かだ。国際会議で、日本語のままで議論ができ、通訳がつくのならもっと複雑なことを喋れるのに(機械で通訳がつくのは、英語、スペイン語、フランス語だけ)。

ミニマム級の指名挑戦者決定戦、1位ロデル・マヨールと2位ロレンソ・トレホの交渉経過を説明し、興行権入札を2週間延期してもらうスピーチをした。壇上のスライマン会長は、英語で私に質問した。「下手なスペイン語で喋るより、英語で喋れよ」という感じだった。意地を張ってスペイン語で返答すればよかったのだが、つい英語で答えてしまった。それから英語でのやりとりになった。午後2時を過ぎ、みんな腹が減っているので早く終わってほしい、というプレッシャーを感じた(特に、スライマン会長から)。

終わると、中南米のいろんなプロモーターやマネジャーが「お前、スペイン語を喋るのか」と、名刺を持って私に話しかけてきた。ドミニカ、アルゼンチン、コロンビアなど。日本は金満国で、日本へ行けばいいファイトマネーを稼げる、と錯覚しているのではないか。実情はそうではないのだが、そんな複雑な話はできない。私も腹が減っていて早く会場を出たい。名刺入れが一杯になった。

帰ったら、もっとスペイン語を復習しないといけないな。私のスペイン語はボクシング・オンリーだから。もっときちんとスペイン語の一般的公式文書がかけるようにならないといけない。そのためには(ボクシングの本以外の)読書量を増やさねばいけない。また課題が増えた。
(10−6−05)


KING OF PENS

スライマン会長と私には共通した趣味があり、それは文房具の収集だ。総会の前には、下のようなリクエストが届く。会長からのEメールをプリントアウトし、文具店に行く。

6 pens Sakura moonlight red ink color
6 pens Sakura moonlight purple
3 pens Sakura moonlight dark green ink color
3 pens Sakura moonlight light blue
4 pens Tiara red
4 pens Tiara purple
3 pens Tiara dark green
3 pens Tiara blue
6 pens Pentel Hybrid brown
4 pens Pentel Hybrid dark green
4 pens Pentel Hybrid dark blue

会長は読書家で勉強好きだ。世界各地のボクシング情報をアンダーラインを引きながら読むのだろう。全17階級のランキング40位あたりの選手の名前まで知っている。

会長の好みはカラーのボールペンで、茶色、ピンク、青色が好きなようだ。私は黄色のマーカーが好きで、いろんな種類を持っている(コピーを取ったとき、アンダーラインが消え目立たないからだ)。

文具店で、会長から頼まれたものと、自分が気に入ったものを分けて買う。ペンやラインマーカーというのは高価なものではない。せいぜい5000円程度だ。以前はきちんと請求し代金をもらっていたが、このごろは「プレゼントです」といって贈呈する。「元気で世界のボクシング界のためにアンダーラインを引きながら資料を読み続けてください」という激励のためだ。

今回、ニューモデルや新しい色のペンを1本ずつ計10種類をプレゼントした。使いよければ、次回またプレゼントしますよ、という意図だ。今回、Pentel Hybrid brownだけが見当たらず、文具店でペンテルのカタログを見てもらったが、茶色はなかった。多分、Goldのことだろうと、それを6本持っていった。

ところが、会長は好みがうるさい。「金色でなく茶色だ」という。「いえ、ペンテル・ハイブリッドには茶色はありません」と答えると、「昨年、きみからもらったものだ」とカウンターパンチが飛んできて、ギャフン。「日本へ帰ったら、もう一度、ペンテル・ハイブリッド・ブラウンを当たってみますよ」と答え、互いに笑って別れた。会長のスイート・ルームには根回しのために直談判に訪れる人たちが行列をなしている。まるで「行列のできる会長室」だ。

文房具の好きな人には楽天家が多いのではないか、と思う。読書や勉強を継続し、自分の人生が永遠に続くかのように錯覚する。私は書斎の机に向かうとき、会長もメキシコの豪邸の書斎で私が贈ったペンでアンダーラインを引きながらボクシングの資料を読んでいるのだろう、と思うことがある。

スライマン会長が私につけたニックネームが「KING OF PENS」だ。別に文房具の王様というほどのマニアではないのだが、会長はそう呼ぶ。

ちなみに、いま私が最近アンダーラインを引くのに使っているのは、
(1)パイロット HI-TEC-O.5 オレンジ色
(2)UNI-BALL UM-100 SIGNO オレンジ色
(3)UNI PROPUS WINDOW 黄色
である。(1)は本の余白に「ウソツケ」とか落書きしながら、読み進むとき書きやすい。(2)はその蛍光色がいい。(3)はマーカーだが、辞書にアンダーラインを引いても、裏頁までにじまない。ドイツ製のマーカーも使うが、これはヨミウリ・ウィークリーで紹介されたので、ここでは省略。

いつかまた会長が来日した折、二人で文具店めぐりをしたいものだ。二人ともなかなか帰ってこず、プロモーターを心配させたりして・・・。
(10−6−05)


モロッコで命びろい

ケイリー・クーパーとマレーネ・デートリッヒの「モロッコ」、ハンフリー・ボガートとイングリッド・バーグマンの「カサブランカ」でモロッコという国を名前だけは知っている。このカディスのラ・リネア(スペイン語で「線」の意味で、国境線か海岸線を意味する地名だ)からは、アフリカ大陸北端のモロッコが近い。航路には2種類あり、アルゲシラス(Algeciras)かタリファ(Tarifa)という隣の港町から船が出る。

今日はランキング論議。各級15位までのランキング委員会が作成した、たたき台ランキングがスクリーンに映され、それについてプロモーター、マネジャーたちが要望を出す。万機公論に決すべしだ。ヘビー級の2位オレグ・マスカエフ、3位ウラディミール・クリチコの順位をめぐり丁々発止の議論が延々と続き、このクラスの討議だけで1時間。「17階級だから、これから17時間かかる。徹夜だな」と、誰かが冗談をいった。しかし、他のクラスは割りに時間をかけず、通過した。

スーパーフェザー級で、わがランディ・スイコは3位から14位に落とされていた。私はすぐ立ち上がり、「これがハウレギにKO負けしたのなら、11ランク落ちても文句はいわない。2−0の判定負けで、1人のジャッジは95−95をつけていた。このランキング降下はひどすぎる。ハウレギはスイコのハードパンチを怖がり、後半は逃げ回っていた。あと2ラウンドあればKOできていた(これは一寸オーバーだったが)。スイコをトップテンに戻してほしい。10位でいい。再考願いたい」と。要望通り、ランディは10位になった。このあと、ハウレギを擁するゴールデンボーイ・プロのヒメネスがたたき台で7位だったハウレギのランキングを4位にした。私はハウレギが7位だったから、遠慮して10位でいい、といった。ハウレギが4位なら、7位くらいを要求できたのに。まあ、いい。早めにOPBF王座防衛戦をし、徐々にランキングを戻そう。

2時半ごろ会議が終わり、部屋で待っていた家内とどこか外に出よう、と話した。私はジブラルタルの山に登り、スペイン、アフリカ、そしてこの英国領を眺望したい、と考えたが、家内は強硬に主張した。「ここまで来て、モロッコに行かないでどうするのよ。一度アフリカ大陸に行ってみたい」と。会議ばかりの総会に連れてきて、家内は昼間とても退屈だろう。私は会議に出ずっぱりだし、休憩時は各国の知己とビジネス・トークをしている。

ホテルのフロントに訊いた。「モロッコのタンジール(Tanger)とセウタ(Ceuta)とどちらが面白い?」と。「セウタはスペイン領だが、タンヘル(スペイン語ではそう発音した)はアフリカだから、タンヘルの方が面白いはずだ」とフロント嬢はいうが、彼女も自分では行ったことがないらしい。

高速フェリーで40分だというから、夜のボクシング(9時ロビー集合)には間に合うだろう。タクシーでアルヘシラスまで20分。タンジール行きの船は5時発の普通便で1時間半もかかる、という。そこでまたタクシーに乗り、タリファに行き、そこから5時発の高速フェリーに乗った。帰りのティケットも買い、8時30分タンジール発の船に乗ることにした。9時すぎにはタリファに戻れるから、ボクシング会場には直行すればいい。35分で行くという案内だったが、出たのが5時20分ごろで着いたのが6時(あとでタンジールとは2時間の時差があり、同地では4時であることが分かった)。

モロッコのタンジールは田舎の港のような所だ。パスポート・チェックを受けている間に、モハメッドという口ひげの濃い回教徒の服を着た政府認定ガイドと名乗る男から声をかけられた。モロッコのガイドブックがあれば、こんなガイドを雇う必要はなかったのだが、急に来たのでそれがない。だが、夜の試合に間に合うため、モロッコ滞在の約2時間を有効に使おう、と思った。これが誤りだった。

港近くの両替機でモロッコの金(ディラハム)に換えろ、という。強硬にクレディット・カードで換えろ、というが、隣に両替屋があったので、30ユーロを交換。両替屋に「表の男は政府認定のガイドだというが、本当か? 信用して付いていって大丈夫か?」と質問した。「イエス」というので、ここで正式に彼をガイドとして雇った。あとで考えると、私がクレディット・カードを持っていることを確かめるため、カードで両替させようと強要したようだった。

タクシーを拾うと、モハッメドは訛りの強い英語で途中の建物を要領よく説明する。カスバの市場街に着いた。狭い広場を取り囲むように市場があり、人また人ですごい混雑ぶりだ。ここで、「今日がラマダンの初日で夕方6時まで断食中だ、6時からレストランが開くから、それまでにショッピングをすればいい」とモハメッドにいわれた。

市場の奥に入り、迷路のような路地をどんどん進んで行く。途中、モロッコ音楽のCDを露天の店で見ようと立ち止まると、このモハメッドがせかせる。行ったところが、まず香料屋。家内は料理の先生だから、こんな香辛料や香料に興味があるのかと思ったら、店に一歩は入るなり、「匂いが気持悪い。早く出たい」という。

次に連れて行かれたのが、絨緞(じゅうたん)屋だ。2階に行くと、ハーブ茶を出され、次から次へ手織りのカーペットを見せられる。値段を訊くと、500ユーロ(約7万円)という。「そんなに持っていないよ」と答えると、「クレディット・カードで払えばいい」とモハメッドが強制する。これがまたしつこい。周囲をモロッコ人が取り囲み、何か買わないと外へ出られない雰囲気だ。この連中を殴り倒して出ることも考えたが、こんな迷路の奥の奥からではとても自分では出られそうもない。それに、騒ぎを起こせば、モロッコ人に取り囲まれ、袋叩きにされるだろう。生兵法を大怪我のもと、という。それはやめよう。

家内は急にこわくなったのか、「もう出ましょう」とひとりで下に降りかけた。すると、「プリーズ・ウェイト! マダム!」とムハメッドとカーペット屋の目つきが変わった。その目のきついこと。先ほどまでの笑顔からまるで恐喝屋の顔に一転。犬に対するのと同じで、こんなときはおびえたら駄目だ。

泰然自若。私はゆっくりハーブ茶を飲み、下に降りて家内にいった。「何か買ってやればいいんだよ」と。そこで料理に使う皿を求めた。相手が50ユーロというのを15ユーロにまけさせ、20ユーロ札を渡し、「5ユーロ釣りをくれ」といった。すると、「5ユーロがないので、このドアの飾りをつける。15ユーロだが、5ユーロにまけておく」という。苦笑してそれを受け取って出た。モハメッドがなかなか外へ出てこない。多分、コミッション(紹介料)を受け取っているのだろう。

家内は「こんなところ早く出たい」という。モハメッドに、「われわれはただの旅行者だ。カーペットや高いものを買う金を持っていない。物を売りつけるのはもうやめてくれ。港へ帰るから、最後の案内をしてくれ」と、相手の目を睨みつけながらいった。「わかった」と彼は答え、タクシーを拾って港へ戻った。別れる間際、30ユーロ分の最初、換金したディラハムを渡した。「ティップをほしい」というから、「それで十分だろう」とまた睨みつけた。彼はそれで引き下がった。やれやれ、ひどいガイドに出会ったものだ。

港に着くと、8時30分発の最終便は客が少ないため出ないかもしれない、という。家内は空腹だ、というので、港の売店でバナナと水を買ってきた。私は船は出る、と思った。バナナと水で夕食というのはごめんこうむりたい。

港の待合室で1時間あまり2人とも口をきかず。家内は私がボクシングの試合を見られなくて怒っているのだ、と思っただろう。私はもっと別のことを考えていた。

<反省>
1. ボクシングの総会に来ているのに、時間つぶしとはいえモロッコなどに渡ったのがミスだった。今後、行動において本末を転倒してはいけない。
2. 私は家内に甘すぎる。モロッコへ行くよりジブラルタルの山頂で我慢するよう強く説得すべきだった。
3. モロッコの雑然とした街並みを見て、市場の奥などに入り込まず、途中で引き返すチャンスはいくらでもあった。妙な好奇心は今後慎むべきだ(特に好奇心の強すぎる家内に対して)。
4. ガイドブックも持たず、妙な国に入るものではない。
5. モハメッドのようなガイドを雇わず、タクシーに乗り料金を確認したうえで2時間くらい貸しきり、タンジールの名所、市場をちらっと眺めればよかった。本来、そうする積りだったのに、夜のボクシングという時間的制約があったために、あんな男を雇ってしまったのがミスだった。外国でガイドというのは旅行者に買い物をさせて、その店からコミッションをとる輩だ、と思わなくてはいけない。

結局、船は出て、タリファ経由、アルイヘシラス行き。船の中で、ヘイネケン・ビールとサンドウィッチで夕食(バナナよりはましだ、猿ではないのだから)。モロッコの9時に出て1時間半だから、10時半着なのだが、スペインでは12時半。ホテルに戻ったのが、夜1時。ボクシングを見に行った連中が帰ってきて、バーで酒を飲んで騒いでいた。悔しいな、ボクシングを見られなかったとは。

事後譚がある。
モロッコが悪い国かというと、他の人たちはそんな印象を持たなかったようだ。
モロッコのスペイン領セウスに行った森田さん、金谷さんのJBC勢によると、「高級住宅地のような街で、非常にきれいだった」という。

角海老の鈴木社長は、総会を早めに切り上げモロッコを回ったそうだが、砂漠まで行って、「いい所だった」という。いやな目をしたのは、われわれ夫婦だけか。

なお、その夜のボクシングは小学校の体育館のような会場に1000ばかり人が入っただけで、まるでアマチュアのような試合ばかりで、みんな退屈したという。それでも、モロッコよりそちらへ行きたかった。
(10−5−05)


スピーチ原稿 「現行10点法への懐疑」

I was given an opportunity to make a speech before ring officials in the WBC convention held in Cadiz, Spain. The following is my manuscript of speech for your reference.


SKEPTICISM ON CURRENT 10-POINT MUST SYSTEM

I have been enthusiastically watching fights in Japan for almost 50 years since my childhood. I have been a correspondent of The Ring Magazine for 41 years since 1964. I have been a TV commentator for 26 years, and am now serving as the commentator of WOWOW cable TV, which regularly shows two or three world title bouts all over the world every week. I have been a collector of boxing films, watching fights of Jim Corbett through Floyd Mayweather. Also, I have been working the corner for some 40 years as manager, trainer or cut-man.

Last year Japan promoted some 270 shows. We saw five shows a week. I, as a matchmaker, produced 170 international bouts last year. The “international bouts” were all between Japanese and foreign fighters. As you may know, Japan is one of the most active countries in terms of boxing promotions, along with the United States, Germany, and England. But it might be true that boxing becomes less and less popular among common people in Japan. I wonder why boxing of today is not loved as much as before. The root cause may be, in part, due to the current 10-point must system, and its application.

In the good old days, boxing was a much easier sport for the general public to understand. They hailed Fighting Harada and other great boxers with a lot of enthusiasm. Previously, a hard round to judge was scored 10-10. It meant that without attacking effectively you couldn’t win a round. You couldn’t win a point without attacking positively. Therefore, boxing was more aggressive and more entertaining. There were more spectacular knockouts than today. But, lately, there has been a strong tendency that even extremely close rounds are forced to be given to one of the boxers. That has produced more runners or jabbers than punchers.

You are professional judges. You can classify and distinguish even a small difference of the round. But the general public cannot distinguish the closest round to be given either. After a close fight, the crowd becomes frustrated to hear the official verdict. Sometimes the decision is against the crowd’s impression. That’s a serious problem. Most of the spectators don’t take a memorandum of the scorecards, unlike you, they just watch fight. The decision confuses the audience. They leave the boxing arena, confused, frustrated and bewildered after the controversial decision. The crowd comes to the boxing arena to feel catharsis and excitement, but boxing sometimes leaves them with frustration over a controversial decision. TV watchers also sometimes get stunned and surprised at the decision. Why? The decision was against their impression of who the winner was. People say, “Boxing is difficult.” What is difficult to the general public? I see that the difficulty to the general public may be in the scoring standard. That is: clean hits, effective aggressiveness, effective defense and ring generalship. The crowd, however, doesn’t understand it as correctly as you do. More difficult is how to evaluate between a few hard punches and numerous light combinations. Much more difficult to the general public is to guess who won a particular round. Most of the crowd isn’t a reader of Mr. Tom Kaczmareck’s “You be the boxing judge.” The public have not attended and listened to Mr. Jose Sulaiman’s lecture on the scoring. Let me say that, today, boxing has become a very hard sport to judge. Boxing on the TV screen is different from what it is in the arena. Also, watching boxing from a ringside seat is quite different from that watching it from a balcony seat.

I would like to make a suggestion to save the general public from their frustration when watching boxing bouts. I suggest all very close rounds to be scored 10-10 as previously. In this manner it becomes clearer who the winner is after a 12-round or 10-round competition. If you are against this idea by saying that there will be too many 10-10 rounds, we may limit the number of the 10-10 rounds, at most, to six rounds out of the 12 stipulated rounds. Or, one third of the 12 rounds, that is, up to 4 rounds.

The current rules and regulations never forbid you, the officials, to score 10-10. In principle, you can do so. But, in reality, especially in the United States, it becomes very rare that a judge scores 10-10 in more than one or two rounds in a single bout. If you do so, you will be criticized, saying, “He isn’t a professional, and he cannot score a winner in a close round. He is an inefficient judge.” You are afraid of being accused as such. Therefore, you are forced to score even a very close round to one by distinguishing a hairline difference. That has produced great many controversial decisions. More important is who the winner is after the fight rather than how correctly you distribute close rounds without scoring even. Problem is to force you, the judges, to score even a closest round to one. Boxing results in a Win, Loss or Draw. But in scoring a round, you are not allowed to score a Draw. Only a Win or Loss. It seems illogical, doesn’t it? How about re-evaluating the importance of a 10-10 round?

There was a movie titled “Back to the future.” But I suggest, “Back to the past” in the scoring. By permitting more 10-10 rounds, we can have a more clear winner. We can eliminate controversial decisions. I’m sure that it will help the resurgence of boxing’s popularity among the crowd. Thank you very much for your listening to my humble speech.
(10-6-05)


リングオフィシャル分科会で講演

私は大勢の観衆の前で喋るのが嫌いではない。小学校、中学校時代、あれほど人見知り、恥ずかしがり屋だったのに・・・。昔の同級生たちがいまの私を見たらビックリするだろう。それはサラリーマン時代、毎週2回、イラクのプラント建設のために資材の海外発送の要領を数百人の業者に説明する役をさせられた経験からだ。慣れてくると、ジョークをいって笑わせたり、強調する所は声を大きくしたり、変化をつけ楽しみながら毎月それをしていた。

午後2時すぎから、「Request to ring officials from a local matchmaker, and recommendations on the current 10-point must system」と題した講演をした。聴衆はリング・オフィシャル(レフェリー、ジャッジ諸氏)で、ほとんどが顔なじみだ。中にジョークを入れたのだが、内容が真面目なもの(現行10点法の批判だから)だったので、あまりみんな笑わなかった。WOWOWの現地雇用のカメラがこの私の講演を収録していたから、帰国して見直してみたい。

夜は国境近くのレストランに行った。中に入ると、WBC総会出席者ばかり。そこにドン・キングも来た。キングは私のことを、「ジャパニース・ジョー」と呼ぶ。家内はキングと一緒に写真を撮ってもらい喜んでいた。私は有名人と並んで写真を撮る趣味はないので、それを眺めていた。ワインでほろ酔い気分になりながら、ホテルまで10分歩くと、浜風が吹いてきて気持がよかった。
(10−4−05)


WBC総会開会

おかしかったのはホテルが未完成だったことだ。9割方完成しているのだが、昼間はドリルや金槌の音が聞こえる。部屋に入ったとき、電話がなかった。どこの部屋もないのかと思っていたが、出席者と話すと電話があるという。ホテルのフロントにいうと、すぐ取り付けてくれた。インターネットの接続について質問すると、「まだそんな設備はない」と冷たい返事(あとで電話回線を使った方法で接続できた)。

親友のOPBF会長のフランク・クイル氏(WBCランキング委員長でもある)はランキング作成のため3日前から当地に入っているが、「この3日間で3度ホテルを変わった。明日がこのホテルの開場らしい」という。多分10月初旬までには完成している予定だったのに、スペイン気質で遅れたのだろう。まるでアテネ五輪のようだ。フロントの対応もゆっくりしている。郷に入らば郷に従えということだろう。ゆっくり順番待ち。私はスペイン語を多少喋るので、親切にいろいろ教えてくれた。

総会では出席者数百人が名前と国をいって自己紹介をする。総会名物のひとつである私の自己紹介。「マッチメーカー、マネジャー、トレーナー、カットマン、ライター、TV解説者、国歌斉唱歌手、そして日本国首相、ジョー小泉」とやると、みんな拍手。しかし、今年は去年より受けなかった。毎年やっていて飽きられたのかもしれない。

開会式でフラメンコ・ダンスを見た。非常に太った女が足取り軽く、タップを踏む。スペインの女性は美人が多いが、なにか目元がきつい感じがする。われわれ東洋人が扁平な顔つきをしていて、それを見慣れているためかもしれないが。
(10−3−05)


英国で乗り換え

元々朝6時20分着予定が、3時間遅れて9時半ごろヒースロー国際空港に着いた。14時50分発の英国領ジブラルタル行きはガトウィック国内空港から出る。これがまた遠い。成田空港から羽田空港に移動するようなものだ。ヒースローの地下通路でCentral Bus Terminalまで行くのが、荷物を押しながらだから結構遠く感じる。家内がバス・チケットを買いにいったが、なかなか戻って来ず、バスが出てしまった。1時間に2本程度のガトウィック空港行きバスなのだが、幸いすぐ次のバスが来た。バス券売り場では前に1000人ばかり並んでいた。女は図々しいから、「イクスキューズミー、急いでるんで」とか言って横入りし、やっとチケットを買ったという。私なら紳士だからそんな真似はできない。きっとあと3便くらい後のバスになっていただろう(それでも乗り換え便には間に合った)。

ガトウィックまで1時間、英国の田園風景をながめながら、バスに揺られる。十分時間があるので、昼食を採り、TieRackでネクタイを求め、本屋をのぞいて時間つぶし。午後3時前の英国航空のゲートに行くと、WBC総会に出席するBBBC(英国コミッション)の人たちと会う。2時間くらいの搭乗だったと思うが、英国の週刊誌BOXING NEWS(これが最近、モデルチェンジして月刊誌のような体裁に変わった)を読んでいた。

ジブラルタルに着くと、過去にも見たことがある岩山が目に飛び込んできた。これは世界的に有名な山で、ものが硬い形容にas hard as the rock of Gibraltarという言葉がある。スペイン南端の街で、gibraltarと小文字で書くと、「難攻不落の要塞」という意味になる。

ボブ・ロジスト・ジャッジ(ベルギー)の本職は飛行機の添乗員で、以前は全日空に務めていたそうだ。息子が日本人の女性と結婚しているとかで、親日家だ。もの知りの彼が、ジブラルタルに着くと、「ここからスペインの国境まで30mで、国境を越えるとすぐ裏がWBC総会の行われるホテルだ」というので、みんなぞろぞろ彼に付いていった。私たちは空港で両替していたのでちょっと遅れたが、国境を越え、荷物があるのでタクシーに乗ることにした。これは正解で、車で5分程度だが、先に行った連中は荷物を持っているので疲れたのか、途中でストップしひと息入れていた。歩いたら10分。荷物を抱えて歩く距離ではない。あとでロジストはみんなから非難を浴びたんじゃないかな。
(10−2−05)


香港で時間つぶし

朝11時に成田を出て、午後2時半に香港に着いた。家内の親戚と会い、家に行く。香港は込み入った街で、山の手にいくほど高級住宅街になる。彼女たちは買い物に出かけ、私はソファで「白人と闘うための日本近代史」(文藝春秋社)を読んでいた(この本を香港からロンドンへ飛ぶ途中、読了したが、機内の前のポケットに置き忘れたらしい。帰国したら、もう1冊買おう。折角アンダーラインを引いていたのに)。夜、その親戚のインド人の友人夫妻(その奥さんに家内は以前、料理を教えていたそうだ)からディナーの招待を受けた。南インド・カレーでもてなされ、美味だった。民族による食事の残し方の違いと文化の関係について説明した(まるで加藤周一になったみたい)。夜10時にいとまごいをし、香港空港へ向かう。深夜〇時40分発予定の飛行機が機械の整備のため、2時半発になり、さらに3時半発になった。眠ってしまわないように空港内を散歩。照明がよくないので、本は読まず。
(10−1−05)