大阪のポンサクレック、小松戦発表会に出席するため、10:26発の新幹線に乗る。その10分前に東京駅に着く。中央線車中で、対面の席に外国人が座っていた。30代半ばくらいの肩幅の広い大柄な男で、顔はヘンリー・フォンダの若いころに似ていた。新宿あたりで一度彼の携帯に電話があり、小声で短く話しすぐ切った。日本で仕事をしているビジネスマンらしい。四谷あたりでまた彼の携帯が鳴り、今度は長く話して続けている。誰も注意しない。
昔、大江健三郎の短編小説で車中、アメリカ兵の横暴に対し卑屈に対応する戦後の日本人の話があったのを想い出した。12月の予定をノートでチェックしていた私は、少し迷った。彼が携帯で喋り続けているのを注意すべきか、無視するか。話しているのが日本人なら看過しただろうが、この男の態度は日本人をなめている。
「Gentleman, you should refrain from talking inside the train」と向かいの席から言った。きみ、車中では電話を慎みたまえ、と注意した。周囲の日本人たちは私、そして外国人を見た。彼はすぐ切った。車中、気まずい沈黙が漂った。周囲の日本人たちは私の態度をどう思っただろう。そんなに事を荒だてなくてもと思ったか、それともよく言ってくれたと感謝したか。
御茶ノ水、神田、東京と10分くらいあった。もし東京駅について、その男(多分、発音からしてアメリカ人だろう)が私に突っかかってきたら、礼儀を教えてやらないといけない。口論になっても、こちらは大声を出さず毅然と諭(さと)そう。
なぜ無視しなかったのだろう。それを注意しなければ、日本人としての誇りにかかわる。それを明確に言わなければ、英語を学んだ価値がない。
東京駅に着いた。青い目の男が言った。「You are rigbt. I’m sorry」と。
私は「That’s OK. Thanks for your cooperation」とだけ答えた。
男は話の中で、「Prime minister’s schedule 首相のスケジュール」とか言っていた。日本に滞在するジャーナリストだろうか。
私も小泉だ。Sorryはきみの方だが。
(11−15−04)
9月17日に引越ししてから2ヵ月弱経つが、まだダンボールの山に囲まれている。家内が「引越し業者がすべて元通りに本棚に入れてくれるから」というので、世界戦の3日前の引越しに同意した。
ところが、私の本だけでダンボール箱が250個あった。1箱に30〜50冊入るから、約1万冊だろう。もの書きとしてはそれほど多いとは思わない。資料を買って集める作家や学者などはもっと蔵書を持っているだろう。
頼んだ引越し屋は、運送は若者(男)が担当し、箱詰め、箱出し、収納はパートの婦人(おばさんたち)が分担した。おばさんたちは私の蔵書を滅茶苦茶に置いて帰っていた。
ボクシング関係の本は約3分の1だ。ボクマガはプロレス&ボクシング時代から、ワールドはゴングからバックナンバーをきれいに並べていたのがグジャグジャ。RING誌も1922年以降、ほとんど揃っていて月ごとに配置してあったのが、乱雑に置かれている。各種のレコードブックも順不同の状態にされた。
家内に「話が違うじゃないか。こんなひどい目に遭うなら、世界戦の前でなく私自身が箱詰めに協力できる日にすべきだった」と言った。10月は旅行続きでまったく整理できず、11月から整理し始めたが、なかなかはかどらない。
私は自分の本だけでなく、故人の下田辰雄、梶間正夫、中村金雄氏の蔵書、スクラップブックを貰い受けた。妹の主人がエンサイクロペディア・ブリタニカを処分すると聞き、それも貰った(家内に非難されたが)。アメリカによく旅したころ、古今のボクシング関連図書を買い集めた。それをきちんと整理していたのが、引越しの際、バラバラにされてしまった。
前の家には9年ばかりいた。何年もかけて配置を変え、使いやすく整理していた。そのシステムが破壊されてしまった。家内にグチをいうと、自分の責任を感じて悲しそうな顔をする。だから、グチはもうやめて、一から片付けだした。
蔵書の多い人、棚の順序にこだわる人は、引越しの前、綿密に計画を練り、本箱に番号を振り、棚にも番号を付し、1−1(本箱#1の第1段)のように座標表示すべきだ、と思う。
私は大学入試の前日、引越しをし、夜父親に「明日、試験だからもう寝ろ」といわれた。夜中まで家族が整理する音が響き、なかなか寝付けなかった。あれは私が17歳のころだが、父は設計技師だけあって(いま思うと)実に合理的で要領のいい引越しをした。そのかわり、2週間前あたりからメジャーで家具の寸法を測り、グラフ用紙に引越し計画書(配置図)を綿密に描いた。あんないい見本を経験したのに、私の今回の引越しは最低だ。
またグチをいうと家内が悲しむ。だから、今後どうするかの方が問題だ。大事なRING誌のバックナンバーが痛んでしまった。それが悲しい。おばさん、RING誌というのはね・・・。それをいっても始まらないか。
(11−13−04)
10月18日、OPBFミドル級タイトル決定戦のあと、レフェリーのデビッド・チュンが亡くなった。約20年来の親友だった。
交友はデビッドがまだ国際レフェリーになる前に始まった。彼はいつも笑顔を浮かべている、色あさ黒い元ボクサーで、ビジネスマンだった。知り合った当時、韓国のボクシングは黄金時代で1ヵ月に3度も世界戦があることがあり、毎週のように渡韓し彼に会っていた。
親しくなりだしたのは畑中、サラゴサ戦以降だろう。判定は2−1でサラゴサの勝ち。デビッドは畑中の勝ちと採点した。韓国の大立者が名古屋に観戦に来ていて、デビッドを痛烈に非難した。「こんな日本びいきの採点をして、それでもジャッジか。お前なんか、サスペンドだ」と。そのとき、私はデビッドを弁護した。「Zさん、この試合は見方によっては畑中の勝ちでもおかしくないファイトだ。デビッドを非難するには当たらない」と。デビッドは私の弁護をずっと感謝していた(大したことではないのだが)。
立会人が畑中の勝ちを指示して、その夜、彼の指導のもと名古屋のホテルから松田会長の名でWBCに判定に対する異議のレターをFAXした。終わったのが、深夜2時過ぎで、私がタイプを打つのを見ていた小島局長、松田会長が眠そうな顔をしていたのを憶えている。その立会人は、デビッドの採点が妥当だ、といった。
10数年前から、デビッドはWBCやOPBFのレフェリー、ジャッジを務めることが多くなり、国際審判として英会話を勉強しだした。そのとき、勉強法をアドバイスした。彼は私を英語の先生と呼んでいた。
その勉強法は簡単だ。40歳をすぎてからの復習法で、デビッドは一応、大学を出ているので基礎はあったのだろう。(1)簡単な英語のカセットを買い、車に乗るとき、それを繰り返し聞き、自分で発音する。(2)WBCなどから来たFAXをファイルしておき、相手側が書いた挨拶の表現を自分でも繰り返し使う。(3)相手のいうことが分からなければ、恥ずかしがらずに何度でも相手に訊く、など。
デビッドは熱心で急速に英会話が上手くなり、それに伴いWBCやOPBFから指名される機会が増え、私との交友がさらに深まった。一度、彼が経営するブロック工場を訪れたが、金浦空港近くの会社は驚くほど広かった。出来立てのブロックを乾燥させるため、広大な敷地が必要だったのだろうが。体の大きなしっかりした後取り息子が会社の実務を継ぎ、デビッドは社長から会長になり、趣味のボクシングで海外に飛び歩いていた。
生きていれば、将来、韓国ボクシング界を背負う人材だった。将来、韓国コミッションの国際部長になっていただろう。世界中でデビッド・チュンを悪くいう者などいなかった。いつも笑顔で人に接し、世話好きで、豪快そうに見えて仕事は几帳面だった。
酒も煙草もたしなむ程度で、早寝早起きで(夜9時に寝て、朝5時前に起きていた)、暇さえあればゴルフをしてサウナという生活ぶりだった。もっと年長者かと思っていたら、まだ57歳だった。あんな元気な人間がこんな形で亡くなるのか、とびっくりしている。
いろんなジムの会長さんが香典の形で、遺体の韓国への移送、入院費の援助をしてくれた。次のワールドボクシングの「東洋から世界へ」にも書いたが、誠に感謝に耐えない。
(11−11−04)