Randy Suico
Alias Golden Boy, Komong Bato
Country Philippines
Hometown Cebu, Philippines
Division Super Featherweight
Age 23
Born 1979-11-24
Stance Orthodox
Height 173
Manager Joe Koizumi
Trainer Juanito Ablaca
Career Record
Date Opponent Location Result
2003-03-29 Timbul Hutagalung Lapu Lapu City, Cebu, Phi W KO 5
OPBF Super Featherweight Title
2002-09-13 Juan Carlos Garcia Las Vegas, NV, USA W TKO 4
2002-04-27 Sungho Yuh Cebu, Philippines W TKO 6
Vacant OPBF Super Featherweight Title
2001-12-22 Jun Longakit Cebu City, Philippines W KO 1
Philippine Super Featherweight Title
2001-08-31 Karim Nashar Antipolo, Philippines W TKO 1
2001-05-05 Khumpoon Eausamphan Manila, Philippines W TKO 2
2001-03-03 Saengsi Por Chaiwat Tokyo, Japan W KO 3
2001-01-26 Dante Paulino Cebu City, Philippines W KO 8
Philippine Super Featherweight Title
2000-07-22 Joel Gonzales Cebu, Philippines W TKO 12
Philippine Super Featherweight Title
2000-04-01 Israel Melendez Tokyo, Japan W PTS 10
2000-02-26 Ramon Molina Philippines W TKO 3
Philippine Super Featherweight Title
1999-12-19 Jun Tanigawa Takasago, Japan W TKO 3
1999-09-25 Joe Escriber Philippines W PTS 10
1999-07-31 Jun Balabat Philippines W TKO 2
1999-05-14 Ferdinand Caracena Philippines W KO 3
1999-03-20 Jonathan Mercado Philippines W KO 7
1998-11-28 Ramon Molina Philippines W TKO 4
1998-09-26 Chu Ferrer Mandaue, Philippines W TKO 5
1998-08-01 Ernie Navarez Mandaue, Philippines W TKO 2
Record to Date
Won 19 (KOs 17) Lost 0 Drawn 0 Total 19
これは私が日本のデータ提供係になっているウェブサイトBOXRECによる
辰吉の対戦者、ウーゴ・ディアンソのフルレコード。
Hugo Dianzo
Alias Canelito
Country Mexico
Hometown Mexico City, DF
Birthplace Mexico City, DF
Division Bantamweight
Age 28
Born 1974-10-14
Stance Orthodox
Height 169
Manager Marcos Mendoza
Trainer Guillermo Peralta
Career Record
Date Opponent Location Result
2003-05-01 Veeraphol Sahaprom Bangkok, Thailand L UD 12
WBC Bantamweight Title
2002-12-13 Jorge Otero Miami, FL, USA W UD 8
2002-10-04 Jesus Perez Miami, FL, USA L UD 8
2002-06-28 Francisco Tejedor Kissimmee, FL, USA W UD 12
WBC Fecarbox Bantamweight Title
2002-04-12 José Laureano Miami, FL, USA W SD 12
2001-08-17 Cruz Carbajal Juarez, CH, Mexico L SD 12
Mexican Bantamweight Title
2001-03-30 Paulie Ayala Ft. Worth, TX, USA L UD 12
WBA Bantamweight Title
2000-10-07 Evangelio Perez Mexico City, DF, Mexico W UD 12
NABF Bantamweight Title
2000-07-01 Francisco Mateos Mexico City, Mexico W UD 12
NABF Bantamweight Title
2000-03-11 Evangelio Perez Miami, FL, USA L KO 10
WBC Continental Americas Bantamweight Title
1999-12-11 Ricardo Medina Mexico City, DF, Mexico W UD 12
WBC Continental Americas Bantamweight Title
1999-10-16 Arturo Valenzuela Mexico City, DF, Mexico W TKO 10
Mexican Bantamweight Title
1999-07-31 Sergio Aguila Mexico City, Mexico W TKO 10
1999-05-08 Erik Lopez Mexico City, DF, Mexico W TKO 11
WBC Continental Americas Bantamweight Title
1998-12-19 Jesus Sarabia Mexico City, Mexico W TKO 9
Mexican Bantamweight Title
1998-11-21 Sergio Millan Mexico City, Mexico W TKO 9
WBC Continental Americas Bantamweight Title
1998-08-08 Jose Antonio Moreno Mexico City, Mexico W UD 10
1998-05-16 Jose Sarabia Mexico City, Mexico W TKO 9
WBC Continental Americas Bantamweight Title
1998-02-07 Juan Luis Torres Mexico City, DF, Mexico W UD 10
1997-12-13 Sergio Millan Mexico City, DF, Mexico W UD 12
WBC Continental Americas Bantamweight Title
1997-10-11 Cruz Carbajal Mexico City, DF, Mexico W UD 10
1997-09-18 Arturo Estrada Mexico City, Mexico W TKO 2
1997-08-02 Alex Lopez Mexico City, DF, Mexico W KO 1
1997-05-10 Oscar Vargas Mexico City, DF, Mexico W TKO 7
1997-04-19 Martìn Juàrez Mexico City, DF, Mexico W TKO 2
1997-02-22 Antonio Garcia Mexico City, DF, Mexico W UD 10
1996-09-14 Reinaldo Bravo Mexico City, Mexico W TKO 4
1996-06-29 Ramon Leyte Mexico City, Mexico L PTS 8
1996-05-25 Jose Felipe Garcia Mexico City, Mexico W TKO 5
1995-09-23 Jose Vicenteno Mexico City, DF, Mexico L PTS 8
1995-07-22 Abraham Barrientos Mexico City, DF, Mexico D PTS 10
1995-04-08 Raul Gonzales Mexico City, DF, Mexico W PTS 6
1995-02-25 Jose Felipe Garcia Mexico City, Mexico W DQ 5
1994-10-22 Jose Antonio Moreno Mexico City, Mexico L TKO 2
1994-08-27 Adrian Torres Mexico City, Mexico W PTS 4
1994-08-12 Laurencio Lujan Pachuca, Mexico W PTS 4
1994-06-18 Sandro Vargas Mexico City, Mexico W TKO 4
1994-04-23 Gilberto Perez Mexico City, Mexico L DQ 3
1994-04-02 Roberto Ronderos Mexico City, Mexico W KO 3
Record to Date
Won 29 (KOs 14) Lost 9 Drawn 1 Total 39
いま書き進んでいる本は、
『超実用版 これで通じる英会話』(広美 刊)。
当初、ボクシングを含むスポーツファンで学生時代英語を勉強せず英語が苦手な人のための「これでも通じる英会話」というテーマで約半分書き、出版社に渡した。
ところが、まず英会話が苦手なような人は本屋に寄って英会話の本を買わない、という出版社側の意見で、まずタイトルが変更になった。「これで通じる英会話」と「も」が削除になった。「これでも」と「これで」はたかが1字の差だが、大変な違いがある。
対象は、そこそこ英語の知識はあるが、もっと通じる英会話のコツを知りたい、という人たちになった。だから、英語の初歩的な説明は省き、全面的書き直しとなった。
さらに、スポーツファンに限定すると読者対象がせばまるという理由で、一般向けの英会話レッスンの本になった。
その書き改めた1章と2章を出版社に再提示していて、その返事がさっき来た。いまの形でOKで、各頁見開きに「ジョー小泉のワンポイントアドバイス」のようなコラムを書き加えてほしい、とのことだ。
私はこれまでボクシング関連の本ばかり書いてきた。
ボクシングは科学だ(絶版)
ボクシング讃歌(絶版)
世界のKOアーチスト(絶版)
時代を生きたボクサーたち
ボクシングにとりつかれた男
ボクシングマッチメーカー
ボクシングバイブル
あなたもジャッジだ(翻訳)
ボクシングトピックス
つねに強気で生きる方法
80年代のリングは輝いていた
ボクシング珍談奇談
マニアの人はひと通り読んでくれたはずだ。
将来、ボクシング・ジャーナリズムに生きようと思う若者たちは私の拙著を読み、私など乗り越えていって欲しい。
私は「珍談奇談」の大冊を仕上げたせいか、ちょっとボクシングの本を書くことに疲れた。いま気分を変え、英会話の本を書き進めることに集中する。
これが終われば、
交渉術、説得術の本
ボクシング短編小説集
日本か東洋のボクシング史(英文)
を書く積りだ。
ボクシングでも先の試合予定を考えず、1試合ごとに集中するのがつねだから、さしあたりこの「これで通じる英会話」に没頭する。
書き上がり、出版日程や価格が決まればまた掲示しよう(市販あり)。
(5−30−03)
「ワールドボクシング」誌6月号の巻頭言を読んだ。
A級トーナメント休止についての記事だ。
私はこの現象について別の考えがある。
トーナメント参加者の激減の原因は、賞金の有無、場所(後楽園ホールか横浜文化体育館)などではあるまい。
以前、盛況だったA級トーナメントがいまや全国のジムに敬遠されだした背景は何か。
それはプロモーター・ライセンスを持つ興行者(すなわちジムの会長)の急増だろう。全国約250ジムがあり、そのうち何と約100がプロモーター・ライセンスを取得する。もう東京の大手プロモーターを頼らずとも、地方で独立して自分のジムの選手を頭にした興行が打てる。
ジムの会長にとり、A級トーナメントを敬遠する理由は何だろう。
それは「トーナメント」の特性として、自分のジムのホープが誰と組み合わされるか分からない不確定性である。相手を選び連勝させやっと日本ランキングに入ったのに、万が一、A級トーナメントでノーランカーに負けたらランキングは飛んでしまう。また、万が一、A級の優勝候補のような強い選手といきなりぶつけられれば、負けるためにトーナメントに出ることになる。それなら、いままで通り、相手を選び、勝てる試合を選んで試合を組み、自主興行をしていけば、わがジムのホープはいずれ日本ランキングが上昇し、そのうち力をつけ日本タイトル挑戦が実現するかもしれない。
こう考えるジムの会長が増えれば、確かにA級トーナメントのエントリーは減るだろう。A級トーナメントの最大の褒賞は、賞金などより、日本タイトルへの挑戦権である。ランキング・ボクサーを抱えるジムの会長は誰もが一度は日本タイトルへの挑戦を目指す(ただし、自分の選手が勝ち目があるまでに成長してから)。この日本タイトルへの挑戦権が確立するのなら、自分で興行できず、且つ自分の選手にある程度自信のあるジムの会長はもっとA級に興味を示すだろう。
しかし、この日本タイトルへの挑戦権ということに問題がある。全13階級でA級トーナメントをせず、特定のクラスだけで勝ち抜き戦をし、その勝者の挑戦を日本チャンピオンは受けねばならないとする。それなのに、A級トーナメントで実施されなかったクラスのチャンピオンは、トーナメント勝ち抜き者の挑戦を受ける義務がない。それは一種の不公平だろう。
A級トーナメントは、実力はチャンピオンと匹敵するものがありながら、上位のランカーが負けないため日本ランキングが動かず、日本チャンピオンに挑戦できないような実力者にとっては魅力だ。しかし、そんな実力者が出場すると、そのクラスの他の選手はエントリーを見送ることになる。
いわば、袋小路なのだ。新人王トーナメントにはみんな自分のジムの選手を出場させる。それは選手がまだ海のものとも山のものとも分からないからだ。それが6回戦、8回戦を経て、ジムの数少ないホープに育ってきたら、相手を選べぬA級には出し難いだろう。
確かに全日本新人王トーナメントは日本の中で全国的なイベントである。しかし、A級トーナメントは地方から見れば、東京がやっている東京のイベントである。名古屋、大阪、九州からのエントリーは極端に少ない。敵地東京で戦う不利もある、と地方のジムの会長は考える。
だから、A級トーナメントの前途は非常に多難だろう。しかし、こんな否定的な背景ばかり並べていては建設的ではない。
では、どうすればいいか。
(1) 今年のように出場者をランキングボクサーに限定せず、A級ライセンス資格者(8回戦で1度以上勝った選手)まで門戸を広げる。
(2) あくまで全階級のトーナメント実施を目標とする。たとえ2人しかエントリーがなくとも、そのクラスのトーナメントは実施する。
(3) A級優勝者には必ず半年以内に日本チャンピオンへの挑戦権を与える(A級優勝者自身が辞退しないかぎり)。日本チャンピオンは1位との指名試合、さらにA級トーナメント優勝者と挑戦者を押し付けられるが、協会のイベントへの協力としてこの義務を必ず果たすように持っていく。理想的には、A級トーナメント優勝者からの挑戦を半年間受けないチャンピオンに対しては王座はく奪するくらいの強制力が欲しい。
いまの日本ランキングは上下動がないという意味で停滞している。ワールドの日本ランキングには各選手の戦績が添えてある。ほとんどすべてが好成績だ。みんな各ジムのホープであり、秘蔵っ子だ。上位は下位と対戦しない。みんな負けない試合にばかり出場する。興行力のあるジムは手ごろな外国人選手を呼び、自分のジムのホープを勝たせる。こんな一般的風潮が日本ランキング内の停滞を生み出している。
A級トーナメントは本来、こんな停滞現象を打破する有力な企画でだ。ところが、日本全国みんなプロモーターとなった今、全国的に拒絶反応が出ている。
こんな手もある。
(4) A級の勝ち抜き戦を各ブロックにまかせ、各ブロック(東日本、中部、関西、西部)のA級トーナメント予選の勝者を出す。4ブロックだから4名だ。その予選勝者4名の最終トーナメントは、組み合わせと試合地をくじ引きで決定する。この場合、ローカル・ディシジョンへの危惧があるなら、中部と関西の勝者同士の対戦なら、ジャッジは各地域から1名、レフェリーは東京から呼ぶ。このくらい徹底しないと、A級トーナメントは全国的なイベントにならない。誰もが他地域の地元判定に危惧を持っているのだから。
うまく運営し、A級トーナメント決勝が次期日本タイトル挑戦者決定戦になるように持っていけば、もっとA級トーナメント自体に話題が集まる。
私はマッチメーカーとして全国の会長諸兄とのつながりがあるが、各自一家言を持つ侍ばかりだ。それをまとめ一元化したイベントを実施するのは大変な苦労だろう。しかし、A級トーナメントをこのまま沈没させる手はないだろう。
(5−29−03)
私のカルシウムに関連する読書はまだ続きいていて、次の2冊を読んだ。
『カルシウム バイブル』(藤田拓男 著)
口から摂るカルシウムが不足すると、骨からカルシウムが溶け出して、血管や脳のような柔らかい組織の中にカルシウムが増え、足りないはずのカルシウムが体中にあふれる不思議な現象を、「カルシウム・パラドックス(逆説)」といい、これが高血圧、心筋梗塞、糖尿病、肩こり、頭痛の原因になるという。
この本には、カルシウム含有食品により体内への吸収率に差があるのは、イオン化率の違いだ、と書いてあった。これは、多分そうだろうと思っていた。小魚や小松菜にカルシウムが多く含まれているが、乳製品(牛乳、チーズ)の方が吸収率がいいのはこのイオン化の効率の差だろう。
もう1冊は
『スポーツ選手の栄養と食事』(スポーツ医・科学研究所)
これはベースボールマガジン社の本で、Q&A方式でやさしく書いてあるのでトレーナーやボクサーにも理解しやすいが、いまも出ているのだろうか。これは私がトレーナー時代によく読んだ本で書庫を調べると2冊あった。
中にいいことが書いてあった。
「食事で塩辛いものを食べた後、のどがかわくのは、塩辛いものを食べたため体内の塩分濃度が上昇し、塩分だけを身体の外へ排泄できないので、水を体内に取り込んで塩分濃度を薄めようとする身体の仕組みによるものです。(中略)スポーツ選手は、普段の食事でも、塩分を摂り過ぎないように注意することが大切です」
かといって、極端に走り、一切、塩分を摂らないと、体内のミネラルバランスがくずれるが、日本人の普通の食事は醤油などで味付けされているので過度に塩辛いものを多く摂るべきではない、というのはいいアドバイスだろう。
(5−27−03)
今日、後楽園ホールで渡辺雄二などの引退記念興行があり、タイ人選手が出場していたが、足払いで投げたり、ゴング後打ったり、実にひどかった。あんなのリングにあげるなよ、という感じ。いま比国は日本遠征が出来るのはランキング・ボクサーだけに限定されているが、いずれタイもこの基準を適用すべきかもしれない。
18日の試合のあと、ある事故のため予定を変更して神戸に一泊した。実家で老母と話していると、昔のことが想い出された。
小学校に入ったとき、入学式や卒業式を初めて見た。その学年の総代が運動場の台に上がり、迎える言葉や送る言葉を読む。5年生総代は、卒業する6年生たちに「お兄さま、お姉さまがた、・・・」と、書いた紙を読み上げる。子供心にこれが実に格好悪いように思えた。いまの言葉でいえば、「ダサイ」となる。お兄さまだって・・・よくあんな恥ずかしいことが言えるな、と。
私はまあ知的な環境に育った。父親は潜水艦の設計技師で毎日、帰宅すると2階で勉強していた。戦争で青春時代を奪われ、勉強する時間に飢えた20代の父は夕食後、鉢巻をしめて難しい工学の本を読んでいた。
そんな家庭だから子供ながら勉強するプレッシャーを受け、学校ではまあ成績がよかった。国語、算数、理科、社会の4教科でたいがい390点以上取っていた。それを父に見せると、「なぜ400点満点が取れないのだ」と殴られた。私を発奮させようと愛の鞭をふるったのだろうが、努力してその結果、叩かれるのには閉口した。元軍人だから、すぐ殴る。昔、地震、雷、火事、親父といって、父親というのは怖い存在だった。
私は3月末日生まれだから、4月生まれの同級生よりほぼ1年、歳が下だ。3年生くらいまでは体も小さく、痩せていた。体力的ハンディがあるのに、癇癪もちで喧嘩早い。子供の頃から父に柔道の強制的訓練を受けていたので、人を投げたくて仕方がない。小学校時代、本当によく喧嘩した。私は成績がいいから級長だ。しかし、通知簿にはいつも素行不良とか情緒不安定とか書かれた。
普通、成績のいい子はおとなしくてクラスの模範になるものらしい。私は相手の言葉に急に腹が立ち、つかみかかる。特に個人的プライドを傷つけられたときは、相手が大きかろうが強かろうが喧嘩になる。年から年中、喧嘩をしていた。血が熱い日本のアイリッシュのようなものだ(いまもその傾向はある)。
子供の喧嘩だから、先生や周囲が止めに入るまでどちらが優勢だったかで勝ち負けが決まる。勝敗はまあ半々を少し上回る程度だろう。とても勝てない奴に挑みかかるから、その体の大きな相手とは何度やっても劣勢。それなら喧嘩しなければいいのに、すぐまた手を出す。担任の先生に怒られたのは、口論の途中で大概、私の方から手を出したからだ。
いつか職員室で、私と相手が喧嘩をしたため注意を受けた。「仲直りしろ」と命じられ、格好だけの握手みたいなことをした。職員室を出た途端、相手が言った。「何度やっても勝てないんだから、もう俺にかかってくるのはやめろ」と。腹が立って、職員室の前で相手を殴った。またつかみ合いになった。先生が出てきてあきれた。私が先に手を出したという理由で、次の授業は教室の後ろに立たされた。
授業をして、先生が質問をする。誰もわからない。私だけが分かる。立たされた私が手を挙げる。渋い顔をした先生が仕方なく私を当てる。もちろん、正解。クイズじゃないから、答えが正しければ席に戻っていいということはない。立ったままだ。この立たされたまま授業を聴いたことが随分ある。先生が嘆いた。「うちのクラスは級長が喧嘩ばかりして一番素行が悪い」と。
あるとき、先生が私に訊いた。「お前、どうしてそんなに喧嘩ばかりするのだ」と。
「僕は毎日、父に叩かれる。その悔しさを晴らすため、その殴られた数だけ次の日、誰かを殴ることを日課にしている」と答えた。
あきれた先生は母親を呼び、それを注意した。母は父に言いつけ、また殴られた。
小学校の頃から父の横でTVのボクシングを見ていて、それが好きになった。暇があれば、我流のシャドーボクシングをする。学校で嫌がる同級生たちにボクシングをしようと誘い、殴る。いつか、ある同級生のお祖母さんが、「K君に打たれるから学校に行きたくない」と孫がいうと苦情を伝えにきた。それを母が父に言いつけるから、また殴られた。多分、私は元気があり余っていたのだろう。
確か和田という優等生がいた。隣のクラスの級長だ。医者の息子で、デブで女みたいな喋り方をする。喧嘩を吹っかけても、暖簾に腕押し。「K君、何を怒っているの」とニコニコ。喧嘩にならない。この和田君は私が395点取ると、398点。私が398点取ると、400点満点。私は絵や習字も得意だったが、いつも彼が金賞、私が銀賞だ。あんなのを神童というのだろう。
5年のとき、例の「お兄さま、お姉さま」という総代は和田君がした。医者の息子で、お母さんっ子で言葉が丁寧な彼が送辞を読むと、あまり違和感がなかった。落ち着いてゆっくり読んで、実に上手かった。彼は何をしても一番だ。ちなみに、彼は金持ちの息子で成績優秀だから、私立の灘中へ行き、東大へ行ったそうだ。多分、父親のあとを継ぎ医者になったのかもしれない。
卒業の前、船曳先生に言われた。「お前、答辞を読め」と。あれだけは大嫌い。なぜ和田君ではないのだろう。毎日、放課後、答辞の練習をさせられた。「ゆっくり、大きな声で読め」と注意された。その答辞の特訓があるので、学校に行くのが実に億劫だった。
卒業式の日、朝礼の台に上がり、みんなの注目する顔を見た途端、あがってしまった。ゆっくり読めと言われているのに、棒読み。声も小さい。上滑りそのもの。台から降りて、先生の方を見ると、渋い顔をしていた。出来が悪かったようだ。以後、40年間、ライバルだった和田君とは会ったことがない。
中学のとき、われわれは戦後っ子だから、一学年の人数が多い。1クラス50人で19クラスもあった。950人いたわけだ。運動場にバラックの教室を建てたり、2部授業もあった。人数が多いせいか、社会が戦後の復興に向かうためか、何かにつけ競争が激しかった。中学1年のとき、私は級長だったが、小学校と同じようによく喧嘩して勝ったり負けたりしていた。
2年のとき、佐藤先生が言った。「K、お前全校で2番だぞ。井上に勝てるよう頑張れ」と。その井上というのは、桂小五郎のような風貌をした、無口な努力家で、抜群に成績がよかった。19クラスもあったから、私はクラスではトップだが、評判の高い秀才の井上との距離がそんなに近いとは思わなかった。先生に励まされて、打倒井上のため真剣に勉強を始めた。もうつまらぬ喧嘩ばかりしている余裕はない。
私は中学1年までは、どの先生とも折り合いが悪かった。勉強はクラスで一番なのに、喧嘩ばかりするから問題児でいつも先生の手を焼かせていた。授業で、「先生、それはおかしい」とか「それはなぜですか」と揚げ足を取るような質問ばかりするので、先生に嫌われていたと思う。中学2年のとき、佐藤先生と初めていい関係になった。「全校一を目指し頑張れ」と激励してくれる。この先生のために頑張らねば、と悪童を返上して勉強し始めた。いいトレーナーと出会ったボクサーのようなものだ。私の喧嘩癖は徐々に治まった。
1学期に中間考査と期末考査があり、1年は3学期だ。ということは、全校で1番になれる機会は、2回のテスト×3学期×3年間=18回のテストしかない。
井上君との対戦成績は、1勝17敗。一度だけ彼に勝ったことがある。それまでほとんど口をきいたことがない別のクラスの井上が、「今回は負けたな」と私に話しかけてきた。ああ、井上は私を意識しているんだ、と思った。毎回、2点か3点差まで追い詰めるのだが、トータルは彼の方が上だ。英語だけは私の方ができたが、総得点ではいつも負けた。井上は学区内の公立高校でなく、他の高校へ行き、東大に行ったと聞いた。私のような我流のシャドーボクシングばかりして、海津だ、権藤だ、間合いだ、タイミングだとか言っているのと違い、勉強ばかりしていた。彼はいま一体どんな仕事をしているのだろう。中学のとき、送辞、答辞とも井上が読んだ。その点だけは、全校で1番でなく2番でよかった、と思った。
なぜ私は英語が得意になったのだろう。
生まれて初めて英語を喋ったのは小学校のときだ。神戸の街にはアメリカ人がよく歩いていた。悪童同士で、「お前、話しかけてみろ。出来ないだろう」と挑発し合う。私は子供のときから妙な度胸だけはある。売られた喧嘩は買う。後ろから、「ハロー」と呼びかけ、相手が振り向くと一目散に走って逃げた。
それが原体験で、中学1年から英語を習い始めたが、最初から英語が得意だった。多分、私は言葉を覚える才能があったのだろう。一度単語を見ると、頭に入る。他の連中が「単語が覚えられない」というのが理解できなかった。私はきれいな筆記体を書くことに興味を持ち、暇さえあれば教科書の文章をノートに筆記体で写していた。そして、英語の授業でよく褒められるので調子に乗り、テキストを何度も繰り返し読んだ。これがよかったのだろう。
神戸港にアメリカの軍艦が停泊したとき、父や同じ艦艇設計課の同僚の人と一般公開に参加することがあった。中学校で習った英語が通じるか、甲板に立っていた米兵に話しかけた。「I am a boy」とか言って。米兵は面白がって相手をしてくれた。父は帰宅後、家族に「こいつはアメリカ兵に話しかけたんだ」と言って笑った。英会話というのは度胸だ。知っている単語の範囲内で相手とコミュニケーションをとればいいのだ。以後、高校、大学の頃、神戸港を散歩し、外国人を見ると話しかけ、英会話のトレーニングをした。米兵、船員、旅行者たちが私の英語を鍛えてくれた。
なぜ英語をあんなに積極的に勉強したのだろう。当時、敗戦国日本にはアメリカに対する明らかな劣等感があった。英語というと、みんな尻込みする風潮があった。「英語くらい何だ」という反発心が子供ながら私の中にあった。私より上の世代を見ると、何かアメリカへの特別な感情があるようだ。それは、戦争で敗れ占領された相手に対する崇拝、敬意、畏敬、躊躇が混合した劣等感のようなものだろう。子供の私は日本人のそんな卑屈な姿勢が嫌いで、英語さえ出来ればアメリカ人と対等に太刀打ちできるような感じがした(実際はそんなものではないのだが)。だから、自分の中に武器を持つため英語を自発的に勉強したように思う。
高校に入り、私は英語と数学だけはできたが、点取り虫競争に以前ほどの興味を覚えなかった。この頃から、ボクシング雑誌に読みふけるようになった。「RING」誌を丸善で買い、それを辞書を引きながら読んだ。自分なりのボクシング用語辞典というか単語帳を作った。丸善で洋書の注文をし、ナット・フライシャー編集長の著作を読んだ。長い英文を読む、いわゆる読解力はこの高校時代に飛躍的に向上したかもしれない。
17歳のときから「RING」誌の通信員をし始めたが、その前の2年間くらいで自分なりのボクシングの英文リポートは書けるようになっていた。ただし、最初のころは手書きの英文リポートで、小型のタイプライターを買ってもらい打ち出したのは18歳のときからだ。
家の近くに神戸拳闘会が移転してきたのが、確か中学生の頃だ。練習をよく見に行った。親父が猛反対しなければ、きちんと入門してもっと真面目に練習したのに。後援会長の親戚という形で坊ちゃん扱いされ、自分でも体を動かしながら、いつの間にか選手の世話をするようになった。
「ボクシング珍談奇談」という本を最近出したが、あの中のエピソードの3分の1くらいは、高校生のとき辞書を引きながら読み込んだ「RING」誌、その他の本に書いてあったものだ。若い時代の読書がいかに鮮明に記憶に残るか、この本を書いている途中、実感した。たとえば、デンプシーとタニーのロング・カウント事件の話など、執筆中、高校当時読んだ文章が頭の中に浮かんできたほどだ。
いまの高校生のボクシング・ファンはヘビー級の歴代世界チャンピオンをそらでいえるか?
私は高校生のときからそれができた(別に自慢にもならないが)。
私は高校時代、ボクシングのユニークなエピソードを集めた本があれば面白いだろうな、と思った。歳を経てそれを具体化したのが、「ボクシング珍談奇談」だ。それを書けて念願を達成したような気分でいる。
いま英会話の本を書いていて、それに関連して自分の英語上達のあとを一寸振り返ってみた。その本の中ではこんな私的なことは書かず、もっと実用的な英語を喋るコツ、ポイントを書いている。しかし、ボクシングであれ英会話であれ、反復訓練なしには上達しない。何事においても王道はない。努力だ。その努力を継続させる目的意識が重要だ。
私はなぜエデル・ジョフレの存在のために世界チャンピオンになれなかった無冠の帝王ジョー・メデルが好きなのか?
子供の頃、メデルと同じような思いをしたことがあるからだろう。努力したあげく負けた人間の辛さ、悔しさ、哀しさを少しは分かるような気がする。
何か自叙伝か英語の話か、支離滅裂になってしまった。いつか自叙伝を書くことがあったら、もっと年代順に整理せねばならない。わんぱくデニスが私の前身だった。
(5-23-03)
5月9日にハニョーラ一行と一緒にランディ・スイコを来日させ、トレーニングを見ていた。
私はマネジャーなのに、日本と比国の距離があるため、あまり指導してやれない。
ルイシトのマネジャーをしていた当時、無理に時間を作ってマニラに月に1度は練習を見に行っていたのと大違いだ。私はルイシト事件のあと、人間が変わった。そして、替え玉事件のあとも、また人間が変わった。いい経験をさせてもらった。
帝拳ジムを使わせてもらったが、日曜は休みなので綾瀬のJBスポーツジムへ行った。
12日の月曜は柔道の講道館へ練習後行き、小山先生にランディの骨密度の検査をしてもらった。
結果は良好だった。
13日は戸田憲士選手にパートナーに来てもらった。
14日は私がWOWOWの音入れで終日不在なので、ランディの練習はオフにし、リング・ジャパンの事務所でS・フェザー級ランカーたちのビデオを集中的に見せた。
15日は成田までランディやスルタン一行を自ら車で送った。
18日は神戸までマッチメークしたOPBFバンタム級タイトル戦のため行った。
2−1の判定勝ちなので地元判定のように受け取る人がいるかもしれないが、完全に長谷川の勝ちだ。過去にビデオでは見たことがあるが、長谷川の試合を生で見るのは初めてだった。
まるで佐竹の小型版だ。独特の防御勘がある。佐竹のディフェンスはフットワークが主体だが、長谷川のそれはボディワークだ。日本人では珍しいボクシングをする。まるで小型パーネル・ウィテカーだ。敗者ジェス・マーカ自身が敗北を認め、長谷川のパンチの強さを褒めていた。まだキャリアが浅いので、その将来は今後の努力しだいだろう。7月20日の長谷川vs.宇野戦はいい試合になりそうだ。ボクシング・ファンは岐阜へ集合!
いつも持ち歩くノート型パソコンの調子が悪くなり、修理に出すとともに新しいのを買った。
それに慣れるため、自らトレーニングをしていた。
マーカ、長谷川戦以降、「速報メール」が一段と早くなった。
新しいPCの性能のよさのためだ。
神戸から帰京する新幹線の車中で、子供の頃の自分を想い出す回想記を書いた。
仕上げていたら、この「ひとりごと」に貼り付けたかったのだが、2割くらい残り未完。
近いうちに掲載することになるだろう。
(5−20−03)